アヘンビジネスにおける東インド会社とカントリー・トレーダーの分業体制

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 清朝時代の中国では、18世紀後半からアヘン吸飲が流行りました(*1)。1729年雍正帝がアヘン販売及びアヘン窟(アヘン吸飲サービスを提供する店)の営業を禁止していたことから、18世紀後半以前にも中国ではアヘン吸飲が人々の間で広まっていたことが分かります(*2)。1858年の通商協定により、清朝はアヘン貿易の合法化を認めました(*3)。1729~1858年の中国においては、アヘンビジネスは「違法」であり、取締りの対象でした。

 違法領域のアヘンビジネスでは、イギリスの「東インド会社」と「カントリー・トレーダー(地方貿易商人)」が輸送役を担いました(*4)。東インド会社は「アヘン製造」を主に担いました(*4)。

 1757年プラッシーの戦いに勝利後、東インド会社は1765年インドのベンガル、ビハール、オリッサの徴税権を獲得しました(*5)。以降、東インド会社はインドにおけるビジネスの権限を拡大していきました。1773年インドにおけるアヘン専売権、1797年アヘン製造独占権を、東インド会社は獲得しました(*6)。以降、東インド会社はインドでアヘンを製造していきました。

 しかし当時のインドには東インド会社以外のアヘン製造組織(マルワ・アヘンの製造組織)もおり(*7)、東インド会社が当時インドのアヘンビジネスを独占していた訳ではありません。アヘンビジネスにおいて東インド会社は競争相手を持っていました。

 東インド会社がアヘンの供給先として目をつけたのが当時の経済大国・中国でした。東インド会社は中国貿易では主に中国茶葉を取り扱っていました(*4)。1833年まで東インド会社は「中国貿易の独占権」を持っていました(*4) (*8)。一方、当時カントリー・トレーダーという民間商人も貿易活動に加わっていました(*4)。つまり1833年以前にカントリー・トレーダーが中国で貿易することは、東インド会社の独占事業を破る行為でした。

 東インド会社は自らアヘンを中国に密輸することに対しては躊躇していました(*4)。清朝側に東インド会社によるアヘン持ち込みが知れた際、清朝が東インド会社との茶葉取引を中止する可能性がありました(*4)。茶葉取引中止は、東インド会社にとって合法領域の収益源を失うことを意味しました。

 東インド会社はカントリー・トレーダーに輸送役(インド→中国)を担わせました(*4)。別の見方をすれば、「密輸時の摘発リスク」をカントリー・トレーダーに引き受けさせた形です。アヘン供給側では、東インド会社が製造、カントリー・トレーダーが輸送をする形の分業体制がありました。

 カントリー・トレーダーは中国の取引業者にアヘンを販売、対価として銀を受け取りました(*4)。カントリー・トレーダーは東インド会社の広東財務局で銀を為替と交換してもらった後、インドに戻りました(*4)。カントリー・トレーダーはインドに戻れば、為替を換金することができました(*4)。

 一方カントリー・トレーダーにより広東財務局に持ち込まれた銀は、東インド会社の茶葉購入資金として用いられました(*4)。東インド会社は中国から茶葉をイギリスに輸送しました(*4)。以上の取引から船で輸送されたのは「アヘン(インド→中国)」「為替(中国→インド)」「茶葉(中国→イギリス)」の3つであり、銀は輸送されなかったことが分かります。

<引用・参考文献>

*1 『中国の歴史9 海と帝国 明清時代』(上田信、2021年、講談社学術文庫), p491

*2 『清朝と近代世界19世紀 シリーズ 中国近現代史①』(吉澤誠一郎、2018年、岩波新書), p39

*3 『清朝と近代世界19世紀 シリーズ 中国近現代史①』, p93

*4 『中国の歴史9 海と帝国 明清時代』, p496-498

*5 『東インド会社 巨大商業資本の盛衰』(浅田實、2017年、講談社現代新書),p168-169

*6 『東インド会社 巨大商業資本の盛衰』, p205

*7 『清朝と近代世界19世紀 シリーズ 中国近現代史①』, p39

*8 『東インド会社 巨大商業資本の盛衰』, p206

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