博徒組織・松田組

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 太平洋戦争終了後の1945年秋、大阪西成で松田雪重により松田組が興されました(*1)。松田組の主な資金源は違法賭博でした(*1)。1964年警察庁によるヤクザ組織に対する取締り強化(通称:頂上作戦)の時、違法賭博に対して非現行検挙が適用されました(*2)。昔は違法賭博の検挙は現行犯のみが対象でしたが、1964年以降非現行犯にも拡大されました(*2)。非現行検挙によりヤクザ組織の違法賭博業は大打撃を受けました(*2)。

 死去した松田雪重の跡を継ぎ、1969年樫忠義が二代目松田組組長に就任しました(*3)。樫忠義組長の時代、松田組は大阪市内に三十数カ所の賭博場を設けていました(*1)。テラ銭(胴元が徴収する手数料)(*4)は1日で1千万以上を超えるといわれていました(*1)。松田組本家の賭場では、全国各地の親分が参加する大掛かりな賭博(通称:総長賭博)が度々あったといわれていました(*1)。総長賭博は親分クラスが客となり長い場合数日間行われる為(*5)、テラ銭の金額は高くなったと考えられます。当時の松田組が違法賭博により経済的に潤っていたことが推測されます。樫忠義組長体制から、松田組は運送業や土建業にも進出しました(*6)。

 非現行検挙が「大阪市という地域」に対して効かなかったのか(松田組以外の大阪市の博徒組織も違法賭博で儲けていた)、「松田組という組織」に対して効かなかったのか(松田組以外の大阪市の博徒組織は違法賭博で儲けられなかった)は検証できませんが、1964年以降も松田組は「博徒組織」として生き残っていました。1975年以前の松田組は、大阪、和歌山、兵庫などを活動範囲とし、350人の構成員を抱えていました(*7)。1970年西日本ヤクザ組織の親睦団体・関西二十日会発足に際し、松田組も参加しました(*8)。関西二十日会は「反山口組」の性格が強い団体でした(*8)。しかし2次団体同士では手を組むことがありました。松田組2次団体・溝口組は1973年頃から、大阪市北区で常設賭場を運営していました(*9)。溝口組は山口組2次団体・一会に「守り料」を払っていました(*9)。代わりに、一会は溝口組の賭場を守っていました(*9)。

 溝口組の賭場内で起きた問題から端を発し、1975~1978年松田組は山口組と抗争しました(*8)。結果1978年暮れ松田組傘下の6団体が離脱しました(*10)。離脱構成員は約100人で(*7)、松田組の勢力(1975年以前構成員350人)は激減しました。その後松田組は松田連合と改称しました(*10)。1979年1月松田連合は関西二十日会を脱退しました(*8)。1983年5月松田連合は解散に至りました(*10)。

<引用・参考文献>

*1 『洋泉社MOOK 「山口組血風録」写真で見る山口組・戦闘史』(有限会社創雄社・実話時代編集部編、1999年、洋泉社), p136-137

*2 『ヤクザ大辞典』(山平重樹監修、週刊大衆編集部編・著、2002年、双葉文庫), p108-109

*3 『ヤクザの散り際 歴史に名を刻む40人』(山平重樹、2012年、幻冬舎アウトロー文庫), p262

*4 『現代ヤクザ大事典』(実話時代編集部編、2007年、洋泉社), p195

*5 『現代ヤクザ大事典』, p198

*6 『大阪ヤクザ戦争 ~30年目の真実~』(木村勝美、2009年、メディアックス), p239

*7 『洋泉社MOOK 「山口組血風録」写真で見る山口組・戦闘史』, p146

*8 『実話時代』2017年9月号, p29

*9 『大阪ヤクザ戦争 ~30年目の真実~』, p8-9

*10 『ヤクザの散り際 歴史に名を刻む40人』(山平重樹、2012年、幻冬舎アウトロー文庫), p264

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