ヤクザ組織トップ死去後の後継者争い

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 ヤクザ組織ではトップの死去後、後継者を巡り組織内対立が起きました。1981年三代目山口組田岡一雄組長の死去により、山口組次期トップの座を巡り、組織内で意見が二分しました (*1)。1984年竹中正久が四代目組長に就任しました(*1)。数年間において山口組トップは不在となっていたことが分かります。2005年稲川会三代目会長・稲川裕紘の死去により、稲川会は1年間、集団指導体制をとりました(*2)。集団指導体制の間、後継者を巡り、稲川会内で2つの派閥が対立しました(*3)。2006年角田吉男が四代目会長に就任しました(*2)。角田吉男の会長就任により、稲川会内の対立は収まりました(*2)。

 大阪の博徒組織・酒梅組においても、後継者を巡り、組織内対立がありました(*4)。酒梅組は明治時代(1868~1912年)の中期、鳶梅吉により結成されました(*5)。酒梅組は賭博以外に金融、不動産、土建業等にも進出し、資金獲得源としていました(*4)。一方、近年まで酒梅組は賭博業を続けていました(*4)。イカサマ対策として、酒梅組の賭場では「手描き札」が用いられていたと言われています(*6)。

 1961年三代目酒梅組松山庄次郎組長(在任期間:1935~1961年)の死去により(*5)、後継者争いが勃発、酒梅組のトップ不在期間が続きました(*4)。後継者候補は中納幸男と審良誠一でした(*7)。1964年中納幸男が四代目組長に就任しました(*4)。酒梅組の後継者争いは収まりました。酒梅組後継者争いにおいて、山口組組長・田岡一雄が調停役を担いました(*8)。田岡一雄と松山庄次郎は「五分の兄弟」の関係でした(*9)。先代の松山庄次郎とのつながりから、田岡一雄が調停役を担ったと推測されます。1963年中納幸男(当時酒海組組長代行)は山口組の菅谷政雄(後に若頭補佐に就任)と「五分の兄弟盃」を交わしました(*10)。翌年(1964年)、中納幸男は四代目酒梅組組長に就任しました。

 中納幸男と菅谷政雄の「五分の兄弟盃」は、酒梅組内外に、「山口組が中納幸男を高く評価している」というメッセージを与えました。山口組が「四代目酒梅組組長」に中納幸男を「推薦」したとも読み取れます。調停役の田岡一雄は、次期組長を中納幸男にする解決策を図り、一環として中納幸男と菅谷政雄の「五分の兄弟盃」を発案したと考えられます。

<引用・参考文献>

*1 『洋泉社MOOK・ヤクザ・指定24組織の全貌』(有限会社創雄社・実話時代編集部編、2002年、洋泉社), p26

*2 『別冊 実話時代 龍虎搏つ!広域組織限界解析Special Edition』(2017年6月号増刊), p54

*3 『山口組 分裂抗争の全内幕』(西岡研介+鈴木智彦+伊藤博敏+夏原武 ほか、2016年、宝島SUGOI文庫), p308

*4 『洋泉社MOOK・ヤクザ・指定24組織の全貌』, p129-131

*5 『実話時代』2018年9月号, p46-47

*6 『現代ヤクザ大事典』(実話時代編集部編、2007年、洋泉社), p92

*7 『山口組三国志 織田絆誠という男』(溝口敦、2018年、講談社+α文庫), p78

*8 『山口組永続進化論』(猪野健治、2008年、だいわ文庫), p214

*9 『洋泉社MOOK 「山口組血風録」写真で見る山口組・戦闘史』(有限会社創雄社・実話時代編集部編、1999年、洋泉社), p16

*10 『大阪ヤクザ戦争 ~30年目の真実~』(木村勝美、2009年、メディアックス), p39

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