ジャマイカのサウンド・システム

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 レコードなど「音源保存・再生媒体」やラジオなどの「受信機」の誕生以前、音楽の受信経路は主に「生演奏」でした。生演奏は音楽専門家集団である演奏団により供給される性格上、「生演奏会の供給数」には限りがあります。音源供給が生演奏の時代、音楽愛好者達は特定の時間・場所に集まり、集団で音楽を楽しんでいました。独りで音楽を楽しめるのは一握りの者(王様や貴族など)に限られていたのです。

 カリブ海のジャマイカ(当時イギリスの植民地)では1930年代、低所得者層向けの「レコード・ダンスパーティ」が開催されていました(*1)。当時ジャマイカには生演奏を提供するクラブがありましたが、入場料金が高い為、低所得者層は生演奏のクラブには行けませんでした(*1)。低所得者層の音楽需要を満たすべく生まれたのがレコード・ダンスパーティでした。レコード・ダンスパーティで流される音源はレコードであった為、演奏団に比し人件費がかからない為、コストが抑えられました。レコード・ダンスパーティは低料金での集客が可能となり、低所得者層を主な客とできました。

 レコード・ダンスパーティは主に集会所、または露天の空地などで開催された仮設イベントでした(*2)。仮設レコード・ダンスパーティは「ダンス」と呼ばれました。仮設レコード・ダンスパーティ(以下、ダンス)の興行は「サウンド・システム」と呼ばれました(*2)。加えて、その興行組織及び音楽装置も「サウンド・システム」と呼ばれました(*2)。「サウンド・システム」という言葉は多義的です。

 サウンド・システムは元々「拡声装置」のことであり、具体的にはアンプ(音の増幅装置)とスピーカー(電気信号を音にする変換装置)を意味しました(*2)。ダンスにおいてレコードの音源をアンプやスピーカーなどで流したことから、次第に「サウンド・システム」という言葉が興行や興行組織も意味するようにもなっていったと考えられます。初期のサウンド・システム(ダンスの興行組織)としては「トム・ザ・グレート・セバスチャン」等がありました(*2)。

 「演奏団の生演奏会」と「サウンド・システムのダンス」の違いは、音源及び供給方法です。前者が「生演奏」による供給であるのに対し、後者は「レコード」を音源とし「サウンド・システム」(音楽装置)で供給しました。共通点としては、両者とも「客を特定の時間・場所に集める」営業形態だったことが挙げられます。

 1950年代のジャマイカでは、イギリスへの移住者が増加しました(*2)。第二次世界大戦後、労働者不足に陥ったイギリスは海外からの移民で補う施策をしたことが、移住者増加の背景にありました(*2)。ジャマイカの音楽家も多数イギリスに移り、ジャマイカの演奏団の数は減少しました(*2)。結果、以前よりダンスやサウンド・システム(興行組織)の需要が増加していったと考えられます。

 1950年代からサウンド・システム(興行組織)間の争いが白熱していきました(*3)。「トロージャン」というサウンド・システム(興行組織)は他組織のダンスに不良グループを送り込んでダンスの営業妨害をするなど、荒々しい手法をとっていました(*4)。また先述のトム・ザ・グレート・セバスチャンとトロージャンはラジオ番組のスポンサーを務め、自組織のダンスの宣伝をしていました(*4)。1950年時のジャマイカにはRJRという民間ラジオ局がありました(*4) (*5)。トム・ザ・グレート・セバスチャン、トロージャンはともにRJRの番組スポンサーを務めていました(*4)。ちなみに1959年にジャマイカ国営ラジオ局JBCが誕生しました(*5)。

当初サウンド・システム(興行組織)はアメリカのリズム&ブルースを主に流していました(*3)。サウンド・システム(興行組織)はリズム&ブルースの音源をアメリカからのレコード輸入により入手していました(*3)。またはジャマイカの売春施設もレコードの入手先の1つでした(*3)。外国人船員が売春施設を利用していたことから、サウンド・システム(興行組織)関係者は売春施設に行き、船員にレコードを売ってもらっていたのでした(*3)。他組織にレコードの中身がばれないように、各サウンド・システム(興行組織)は、レコードのラベルを剥がしていました(*3)。

 1950年代半ばジャマイカで本格的なレコーディング・スタジオ(音楽録音施設)兼レコードプレス工場の「フェデラル」が設立されました(*6)。フェデラル設立以降、ジャマイカ人の音楽家は音源を録音していくようになりました(*6)。当初、市販用のレコードは生産されず、各サウンド・システム(興行組織)が特注のレコードが生産されました(*6)。特注レコードは「ダブ・プレート」と呼ばれ、別名「スペシャル」「ソフト・ワックス」とも呼ばれました(*7)。「特注」であった為、ダブ・プレートは理屈上「1つしかないレコード」でした。サウンド・システム(興行組織)はダブ・プレートにより他組織との差別化を図ったのでした。1957年以降から市販用レコードもジャマイカで発売されていきました(*6)。ちなみに1970年代初頭に生まれた「ダブ」はダブ・プレートとは異なります(*8)。ダブとは「リミックス(既存音源の再編集)」のことを指します(*8)。

 また1950年代から都市のキングストンでは「タレント・ショー」が盛んに開催されました(*9)。タレント・ショーとは、歌手などの芸能人を夢見る素人達によるコンテストでした(*9)。サウンド・システム(興行組織)を含めた音楽業界にとってタレント・ショーとは「若手発掘の場」でした。実際タレント・ショーはジャマイカの多くの歌手を輩出しました(*9)。当時サウンド・システム(興行)がジャマイカにおいて「一大ビジネス」であったことが窺えます。

<引用・参考文献>

*1 『REGGAE definitive』(鈴木孝弥、2021年、Pヴァイン), p13

*2 『いりぐちアルテス008 レゲエ入門 世界を揺らしたジャマイカ発リズム革命』(牧野直也、2018年、アルテスパブリッシング), p236-238

*3 『ソリッド・ファンデーション 語り継がれるジャマイカ音楽の歴史』(デイヴィッド・カッツ著・森本幸代訳、2012年、DU BOOKS), p23

*4 『ソリッド・ファンデーション 語り継がれるジャマイカ音楽の歴史』, p27,29

*5 『いりぐちアルテス008 レゲエ入門 世界を揺らしたジャマイカ発リズム革命』, p68

*6 『ソリッド・ファンデーション 語り継がれるジャマイカ音楽の歴史』, p39

*7 『ソリッド・ファンデーション 語り継がれるジャマイカ音楽の歴史』, p30

*8 『ジャマイカ&レゲエ A to Z 2010年増補改訂版』(2010年、TOKYO FM出版),p52

*9 『いりぐちアルテス008 レゲエ入門 世界を揺らしたジャマイカ発リズム革命』, p70-71

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