博徒組織及びテキヤ組織は、組織運営上、親分-子分の関係をとってきました(*1)。親分-子分の関係は垂直的(支配-被支配的)で(*1)、擬制的でした(*2)。組織トップが「親分」に、配下が「子分」になることで、組織内の指揮命令系統が一本化しやすかったと考えられます。博徒組織及びテキヤ組織内では親子盃を交わすことで、親分-子分の関係(擬制的親族関係)が形成されました(*2)。
大正時代(1912~1926年)の中小炭鉱では、博徒組織とテキヤ組織同様に、親分-子分の関係がありました(*3)。炭鉱のトップが「ヤマ主」でした(*3)。ヤマ主の子分には、2~3人の「頭領」がいました(*3)。頭領の子分には、10~20人の「納屋頭」がいました(*3)。納屋頭は、12~30人前後の「坑夫」を子分として持っていました(*3)。「ヤマ主」→「頭領」→「納屋頭」→「抗夫」という垂直的な序列関係がありました。炭鉱においても、垂直的関係を形成するため、親子盃が交わされました(*3)。
また炭鉱経営側は「暴力的集団」を活用することで、抗夫を治めていました(*4)。炭鉱から結成されたヤクザ組織として有名なのが「太州会」です(*4)。
太州会初代会長は太田州春でした(*4)。
1957年頃、太田州春は「太田組」を結成しました(*5)。太田組は1967年、「太州商会」に改称しました(*5)。1972年太州商会は「太州会」に改称しました(*5)。太州会の構成員総数は百数十人でした(*5)。
1974年9月「赤心会」が結成されました(*5)。赤心会は連合型の組織で、高瀬昇がトップ職の総長(初代)に就任しました(*5)。赤心会は工藤組(北九州市)とは親戚関係を有していたといわれています(*5)。赤心会の構成員総数は300人超といわれていました(*5)。構成員総数では赤心会の方が太州会を上回っていたのでした。赤心会は、太州会に対抗すべく結成された側面もありました(*5)。
太州会トップの太田州春、赤心会トップの高瀬昇はともに「身吉会」の出身者でした(*5)。身吉会は、トップ(会長)身吉広行の引退に伴い、1955年頃、解散しました(*5)。
1975年6月2日太州会の元構成員(坂本英雄)が、田川市内にある高瀬昇の自宅内に侵入、高瀬昇と赤心会若頭の中野義春を射殺しました(*5) (*6)。射殺犯の坂本英雄は、前月(5月)1日付で、太州会から破門されていました(*6)。6月4日赤心会側が太州会の準幹部を銃撃し、反撃に出ました(*6)。
<引用・参考文献>
*1 『現代ヤクザ大事典』(実話時代編集部編、2007年、洋泉社),p10-11
*2 『現代ヤクザ大事典』,p104
*3 『興行界の顔役』(猪野健治、2004年、ちくま文庫), p388-389
*4 『洋泉社MOOK・ヤクザ・指定24組織の全貌』(有限会社創雄社・実話時代編集部編、2002年、洋泉社), p122-124
*5 『実録 乱世喧嘩状』(藤田五郎、1976年、青樹社),p190-191
*6 『実録 乱世喧嘩状』,p192-197
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