インドのムガル帝国・皇帝アウラングゼーブが1707年死去、以後ムガル帝国の支配力は弱体化していきました(*1)。弱体化は外部勢力の伸張を許しました。1757年イギリスの東インド会社はベンガル太守(ムガル帝国の地方行政官)との戦い(プラッシーの戦い)に勝利し(*2) (*3)、1765年にはインド東部三地方の徴税権をムガル帝国から獲得しました(*3)。三地方とはベンガル、ビハール、オリッサを指しました(*3)。
当時のベンガルはインド最大の食糧生産地及び高級綿織物の産地として知られていました(*2)。東インド会社は徴収した税から一定額を、ムガル宮廷及び地元の太守に渡していました(*3) (*4)。残りは「東インド会社の収益」となりました。
また東インド会社はインドでアヘンビジネスを展開していきました。東インド会社は1773年「アヘン専売権」、1797年には「アヘン製造独占権」を獲得しました(*5)。権利の獲得に基づき、東インド会社は主にベンガル一帯(ビハール州なども含む)でアヘンを生産しました(*6)。東インド会社により生産されたアヘンは別名「ベンガル・アヘン」と呼ばれました(*6)。ベンガル・アヘンの輸送経路としては、ガンジス川(ヒマラヤ山脈からバングラデッシュのベンガル湾に流れる)が用いられました(*6)。東インド会社は「アヘン独占販売権」の入札を実施し、最高額を提示した商人に独占販売権を付与しました(*6)。
図 現在の西ベンガル州付近の地図(出典:Googleマップ)
ちなみに当時(18世紀後半)のベンガル地方の主な輸出品は綿織物でした(*7)。イギリスはベンガル地方から多くの綿織物を輸入していました(*7)。しかし当時のイギリスは産業革命下の技術革新も手伝い、自国(イギリス)産綿織物の市場拡大に成功しました(*7)。後にイギリス産綿織物がインド市場においてもインド産綿織物を凌駕するに至りました(*7)。結果ベンガル地方の綿織物産業は衰退していきました(*7)。
一方、当時のインドでは「マルワ・アヘン」と呼ばれたアヘンも生産されていました(*6)。マラーター同盟のシンディヤー家、ホールカル家(後の「中央および西部諸藩王国」)がマルワ・アヘンを生産していました(*6)。マルワ・アヘンの販売では、独占販売権を特定の商人に付与する形はとられませんでした(*6)。複数のアヘン商人がマルワ・アヘンを入手できました。
ベンガル・アヘンの場合、入札制度の為、東インド会社からの仕入れ価格は上昇しやすかったと考えられます。ゆえに独占販売権を得た商人は、販売価格に「上乗せ」する形で、仕入れ価格の上昇を埋め合わせしたと推測されます。ベンガル・アヘン価格は高くなる傾向にありました。実際マルワ・アヘンはベンガル・アヘンよりも低価格だった為、マルワ・アヘンの需要は高かったです(*6)。
<引用・参考文献>
*1 『興亡の世界史 東インド会社とアジアの海』(羽田正、2017年、講談社学術文庫), p302
*2 『興亡の世界史 東インド会社とアジアの海』, p309
*3 『東インド会社 巨大商業資本の盛衰』(浅田實、1989年、講談社現代新書), p169
*4 『興亡の世界史 東インド会社とアジアの海』, p313
*5 『東インド会社 巨大商業資本の盛衰』, p205
*6 『アジア遊学260 アヘンからよむアジア史』「イギリス領インドとアヘン」(杉本浄、2021年、勉誠出版), p75-77
*7 『貿易の世界史 ―大航海時代から「一帯一路」まで』(福田邦夫、2020年、ちくま新書), p121-123
コメント