ロクマ

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 昔、テキヤ(露店商)の中には易者(えきしゃ)がいました(*1)。易者とは占い師のことで、「ロクマ」と呼ばれていました(*1)。「ロクマ」という言葉は、仏教用語の「六魔」に由来しました(*2)。六魔とは「畜生」「餓鬼」「修羅」「地獄」「人間」「天上」を指しました(*2)。1955年頃まで易者ビジネスは盛んでした(*2)。

 「会津家分家溝口」二代目・山本長蔵は戦前(1941年以前)、易者をしていました(*1)。会津家分家溝口とは「会津家」一門(会津家の本家、会津家系統の一家群、会津家系統の分家群)の一派で、会津家一門は「会津家一家」を本家(宗家)としました(*3)。会津家とはテキヤ業界内での「稼業名」(屋号)でした(*4)。

 鈴木常三郎が明治時代(1868~1912年)の初期、浅草で会津家一家を結成しました(*3)。鈴木常三郎は福島県の会津生まれでした(*3)。川出喜三郎が会津家一家(会津家一門の本家)の二代目を継承しました(*3)。川出喜三郎が二代目を継承した際、溝口泰助が「分家名乗り」を、田中甚次郎が「一家名乗り」をして、それぞれ会津家一家から独立しました(*3)。テキヤ業界において元の組織は「分家名乗りした者」に縄張りの一部を譲渡しました(*5)。一方、「一家名乗りした者」に対しては、元の組織は縄張りを譲渡しませんでした(*5)。分家名乗りした者は、元の組織において重要な人物(功労者)であったことが窺えます。

 先述した会津家分家溝口とは、溝口泰助が分家名乗りして立てたもの(稼業名もしくは組織)だったのです。山本長蔵は溝口泰助の跡を継いで、会津家分家溝口二代目となったのでした。

 太平洋戦争終了(1945年)後も、山本長蔵はしばらく神田で易者をしていました(*1)。また易関係の本を販売する露店商人は「ロクマごろし」と呼ばれました(*6)。易者とテキヤ組織は近い距離にいたことが推測されます。

 ロクマの営業形態としては主に2つありました。1つが「立見」で、ロクマが1人で道角などに立って営業する形態でした(*7)。もう1つが「ヤサ打ち」で、空き家などを借りて、書生が入口に立って営業する形態でした(*7)。ヤサ打ちにおいて「先生役」と「書生役」が1日交代するという場合もありました(*7)。

 ロクマはテキヤ業界において「先生」と呼ばれていました(*7)。

<引用・参考文献>

*1 『親分 実録日本俠客伝①』(猪野健治、2000年、双葉文庫), p125

*2 『盛り場の民俗史』(神崎宣武、1993年、岩波新書), p124

*3 『公安大要覧』(藤田五郎、1983年、笠倉出版社),p357

*4 『テキヤと社会主義 1920年代の寅さんたち』(猪野健治、2015年、筑摩書房),p23

*5 『テキヤと社会主義 1920年代の寅さんたち』,p72-73

*6 『親分 実録日本俠客伝①』, p231

*7 『生活史叢書4 やくざの生活』(田村栄太郎、1994年、雄山閣),p149

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