「戦果アギャー」と「運玉義留と油喰小僧」

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 太平洋戦争終了(1945年)後、現在の沖縄県は1972年までアメリカ軍の支配下に置かれました(*1)。終戦直後、沖縄の人々はアメリカ軍収容所での生活を余儀なくされました(*2)。収容所ではアメリカ軍から物資が配給されましたが、需要に対し供給が追い付かない状態でした(*2)。物資不足に悩んだ一部の人々はアメリカ軍基地から物資を窃盗していきました(*2)。

 次第にアメリカ軍基地からの窃盗活動は組織規模で行われるようになり、沖縄裏社会の一大ビジネスの様相を呈していきました(*2)。窃盗団は窃盗物資を転売することで、収益を上げていました(*3)。需給逼迫する当時の沖縄では、窃盗物資が「高値」で売れたのです(*3)。窃盗物資は「戦果」、窃盗する者は「戦果アギャー」と呼ばれました(*2)。

 1949年末から沖縄で大規模なアメリカ軍基地が建設されていきました(*3)。アメリカ軍基地の大規模化に伴い、窃盗活動は困難になっていきました(*3)。アメリカ軍側は基地を大規模にしたことに伴い、警備体制を強化していったこと背景にあったと考えられます。以降、アメリカ軍基地からの窃盗ビジネスは下火になっていきました(*3)。

 戦前の沖縄では『運玉義留と油喰小僧』という芝居が上演されていました(*4)。運玉義留(うんたまぎるー)と油喰小僧(あんだくえーぼーじゃー)は18世紀初めの琉球にいたとされる人物ですが、南塚信吾は「伝説上の人物であろう」と推測しています(*4)。運玉義留と油喰小僧は王家や親方の家に盗みに入り、盗んだ物を貧しい人々に配ったといわれています (*4)。2人の伝説を芝居にしたのが『運玉義留と油喰小僧』でした (*4) 。『運玉義留と油喰小僧』は1950年頃から沖縄では再演されていきました(*4)。

 アメリカ軍基地からの窃盗ビジネスが下降線を辿り始めた1950年頃に、『運玉義留と油喰小僧』が再演になったのは興味深いです。当時の沖縄の人々は「戦果アギャー」を運玉義留と油喰小僧に重ね合わせて見ていたのかもしれません。

<引用・参考文献>

*1 『洋泉社MOOK・沖縄ヤクザ50年戦争』(有限会社創雄社『実話時代』田中博昭編、2004年、洋泉社), p201

*2 『洋泉社MOOK・沖縄ヤクザ50年戦争』, p22-25

*3 『洋泉社MOOK・沖縄ヤクザ50年戦争』, p37-41

*4 『アウトローの世界史』(南塚信吾、1999年、NHKブックス), p54-59

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