2000年代前半のロンドン裏社会において有名な人物

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 1998年以前のロンドンでは、ジャマイカ系アウトロー組織(ヤーディー:Yardie)(*1)による銃犯罪が多発していました(*2)。一方ロンドンの老舗アウトロー組織はヤーディーの「跳梁跋扈」を看過できず、水面下で警察組織に取り締まりを「依頼」しました(*2)。

 警察組織の取締りが奏功したのか、1998年以降ヤーディーによる違法薬物の路上販売活動は縮小していきました(*2)。

 ヤーディーの資産の1つに「コカイン仕入れルート」(コロンビア→カリブ海→イギリス)がありました(*3)。仕入れルートの保有により、1980年代末にはヤーディーはロンドンで流通するクラック(コカインの派生品)の80%以上を支配下に置いていたとされています(*4)。1998年以降もヤーディーは「コカイン仕入れルート」を保有していきました(*2)。

 2000年代前半のロンドン裏社会において有名な人物としてはクリストファー・マイケル・コーク(Christopher Michael Coke)、ビバリー・“ベブ”・ストアー(Beverley “Bev” Storr)の2人がいました(*5)。

 クリストファー・マイケル・コークは別名「ドドス」(Dudus)と呼ばれていました(*5)。ドドスはキングストン(ジャマイカの首都)出身で、ロンドン及びカリブ海の両方で活動しました(*5)。ビバリー・“ベブ”・ストアー(ベブ)は北ロンドンの女性で、ドドスの事業パートナーでした(*5)。

 ドドスがコカインをベブに供給、ベブはコカインを傘下の者に卸していました(*5)。つまりドドスは「海外調達及び元売り」、ベブは「卸売り」の役割分担があったと考えられます。

 1997年以前のベブはスペインでも活動していました(*5)。スペイン-イギリス間のコカイン、ハシシ(ペースト状のマリファナ)密輸ビジネスをベブは手掛けていました(*5)。スペインでのベブの主な活動拠点は、南部のアンダルシア州コスタ・デル・ソル(Costa del Sol)でした(*5)。コスタ・デル・ソルは「違法薬物の国」(druglands)としても知られていました(*5)。

 スペインのバルセロナ港とバレンシア港は「国際ハブ港」です(*6)。またスペインと南米諸国(コカイン生産国)の公用語はスペイン語であり、コカイン取引時においてはスペイン人ブローカーを介すと、コミュニケーションコストは大いに軽減されます(*6)。ゆえにスペインはコカイン密輸の「結節点」として機能していたことが推測されます。

 アンダルシア州が地中海及び大西洋を挟み対面しているのが、アフリカ大陸のモロッコです。モロッコはハシシの密造国で、ヨーロッパにハシシを密輸していました(*7)。おそらく当時コスタ・デル・ソルは「ハシシの密輸拠点」の1つだったと考えられます。

 1995年以降、EU(欧州連合)の各加盟国はシェンゲン協定を施行していきました(施行時期は加盟国によって異なった)(*8)。シェンゲン協定では「EU加盟国間の国境検問(出入国審査)」が廃止されます(*8)。スペインはEU加盟国であり、スペインと他のEU加盟国との往来では、出入国審査がありません。ゆえに違法薬物を扱う組織からすると、EU加盟国のスペインにさえ持ち込めば、他のEU加盟国への密輸は楽になります。

 アメリカ合衆国系バイカーギャングの「ヘルズ・エンジェルス」(Hell’s Angels)もコスタ・デル・ソルに進出、2002年に支部を設立しました(*9)。イタリアのアウトロー組織ではカモッラ(camorra)が2021年時点にコスタ・デル・ソルに拠点を置いていました(*6)。

 ちなみに近年スペインの他の地域ではラテン・キングス(Latin Kings)、ニエタス(Ñetas)、モロ・キングス(Moro Kings)、ジプシー・キングス(Gypsy Kings)等のアウトロー組織が活動していました(*10)。ラテン・キングス、ニエタスは中南米諸国出身の若者達で構成されていました(*10)。またモロ・キングスは北アフリカ出身の若者達、ジプシー・キングスは貧困地域のジプシーの若者達で構成されていました(*10)。

 1997年コスタ・デル・ソルのマラガにてベブは300万ポンド相当の違法薬物とともに逮捕され、後に収監されました(*5)。2000年に釈放されたベブは活動拠点をスペインからデンマークに移しました(*5)。その後ベブは、コロンビアのカリ・カルテル(コカインの生産側)とロンドン及びイングランド南東部の組織(コカインの販売側)の「仲介役」になりました(*5)。つまりベブは「コカインの大手ブローカー」になったのです。

 メデジン・カルテルの有力者パブロ・エスコバルが1993年12月2日コロンビア警察により射殺された後、メデジン・カルテルは衰退していきました(*11)。パブロ・エスコバル死亡以降、カリ・カルテルはメデジン・カルテルから販売先(顧客)を奪い、コカイン市場における自陣の影響力を大きくしていきました(*12)。

 しかしカリ・カルテルも1995年以降の最高幹部の社会不在により、カルテル内部の統制をとれなくなり、勢いを失っていきました(*12)。しかしながら2000年頃のカリ・カルテルはまだコカインの「大手生産者」として位置づけられていたと推測されます。また2000年時カリ・カルテルはヨーロッパに「担当者(マネージャー)」を置いていました(*5)。2000年時のヨーロッパ担当者はアルトゥーロ・ミランダ(Arturo Miranda)でした(*5)。アルトゥーロ・ミランダはスペインの首都・マドリードを拠点に活動していました(*5)。

 ベブは後にロンドンに移り、ロンドンにおける違法薬物の路上販売拠点(街角)を組織的に占拠していきました(*5)。先述したように、当時はヤーディーが違法薬物の路上販売活動を縮小していった時だったので、ベブが空隙を埋めた格好です。

 しかし2002年11月3日ベブの恋人が自宅(ロンドン)で死んでいるベブを発見しました(*5)。捜査の結果、デンマーク当局は、ベブは薬物混入もしくは強制的に大量の薬物を摂取させられたことで死に至ったという見方をしました(*5)。実はベブはカリ・カルテル側の者(先述のヨーロッパ担当者のアルトゥーロ・ミランダ)を密かにデンマークで殺害していました(*5)。ゆえにカリ・カルテル側の報復により、ベブは殺害されたという噂が立ちました(*5)。 一方ドドスは2010年6月、故郷のジャマイカで捕まり、アメリカ合衆国に引き渡されました(*13)。後にアメリカ合衆国の裁判所は、ドドスに懲役23年の判決を下しました(*13)。

<引用・参考文献>

*1 『The Real Top Boys: The True Story of London’s Deadliest Street Gangs』(Wensley Clarkson, 2020, Welbeck), p18

*2 『The Real Top Boys: The True Story of London’s Deadliest Street Gangs』, p38-39

*3 『The Real Top Boys: The True Story of London’s Deadliest Street Gangs』, p20

*4 『The Real Top Boys: The True Story of London’s Deadliest Street Gangs』, p29

*5 『The Real Top Boys: The True Story of London’s Deadliest Street Gangs』, p40-45

*6  Anna Sergi・Alice Rizzuti.(2021). C.R.I.M.E. Countering Regional Italian Mafia Expansion.p149-150

*7 『[日経BPムック]ナショナル ジオグラフィック 別冊  マリファナ 世界の新事情』(2020年、日経ナショナル ジオグラフィック社), p77-80

*8 『国際情勢の見えない動きが見える本 新聞・テレビではわからない「世界の意外な事実」を読む』(田中宇、2001年、PHP文庫),p67

*9  ヘルズ・エンジェルスのサイト(https://hells-angels.com/area/spain/

*10 『Encyclopedia of Gangs』「Spanish Gangs」(Carles Feixa and Laura Porzio,2008,Greenwood Press),p233-234

*11 『コロンビア内戦―ゲリラと麻薬と殺戮と』(伊高浩昭、2003年、論創社),p195

*12 『コロンビア内戦―ゲリラと麻薬と殺戮と』,p213-215

*13 『The Real Top Boys: The True Story of London’s Deadliest Street Gangs』, p46-47

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