南アフリカでは人種隔離政策「アパルトヘイト」が1948年から開始されました(*1)。アパルトへイト下、カラード(Coloured)の家庭では節酒が求められました(*2)。アパルヘイト関連法においてカラードは「白人でなく原住民でもない人々」と定義され、またカラード居住区での居住を義務づけられました(*3)。また婚姻においてはカラード同士の婚姻だけが認められました(*3)。
1959年以降カラードの下位分類として「ケープ・カラード」「マレー」「インド系」「チャイニーズ」等の7つが法律で定められました(*3)。またアパルトヘイト下の南アフリカにおいて黒人も節酒を課せられました(*4)。黒人は飲酒する為に、許可証(1カ月にビール6本、蒸留酒1本)を申請する必要がありました(*4)。つまり1カ月にビール6本、蒸留酒1本という「飲酒量の上限」が行政によって設定されていたのです。
19世紀後半にすでに南アフリカの白人層は、他人種の飲酒を問題視し、他人種に対し飲酒を規制していました(*5)。しかし多くの非白人居住地域の人々は自家製ビールを密造し、密売していました(*5)。
1970年代前半のケープフラッツ(ケープタウン南東部。カラード居住区)では、たった20軒の酒屋(ライセンス取得済みの店)が営業しているだけでした(*2)。また酒屋の営業時間は決められており、店内での飲食や後払い決済は認められませんでした(*2)。
行政当局が供給制約を課すと、自ずと「闇市場」が生まれていきます。アパルトヘイト下のケープフラッツでは「シビーン」(shebeen)という名の違法酒場が流行りました(*2)。
ライセンス取得済みの酒場が数千のシビーンに酒を卸していました(*2)。つまりライセンス取得済みの酒場にとっては仕入れるのは「合法領域」で、卸すのは「違法領域」でした。1980年までにケープフラッツには約3,000のシビーンが違法営業していました(*2)。またアパルトヘイト下のシビーンでは違法薬物も売買されていました(*6)。アパルトヘイト下のシビーンは「違法領域」ゆえに、違法薬物も売買されやすい場所であったと推測されます。
2012年時点の南アフリカにおいてシビーンは合法化されていました (*4)。2012年時点でシビーンは掘っ建て小屋等を店舗にし、ビールに加えてトウモロコシ粥や肉類を販売していました(*4)。
また2012年時点のシビーンは鉱山や製造業の施設近くで開業しており、鉱山や製造業の従業員を主な客層としていました(*4)。背景には、2012年時点においてその従業員達が酒屋やナイトクラブに行くことができなかったことがありました(*4)。また2012年時点で鉱山や製造業の施設近くの違法酒場は「昼食時間」や「給料日」のみに営業する等、営業時間を限定していました(*4)。
2012年時点では高校生用シビーンが営業(違法営業)していました(*7)。高校の上級生が高校生用シビーンを運営していました(*7)。学校関係者は高校生用シビーンを潰そうとするも、高校生用シビーンは残り続けました(*7)。
<引用・参考文献>
*1 『ネルソン・マンデラ - 分断を超える現実主義者』(堀内隆行、2021年、岩波新書), p35
*2 『The Number』(Jonny Steinberg,2005, Jonathan Ball Publishers), p117
*3 『エリア・スタディーズ 南アフリカを知るための60章』「「カラード」の歴史-歴史につくられた「カラード」」(海野るみ、2010年、明石書店),p63-68
*4『Shebeen Culture in South Africa: Shebeen Culture』(David Bogopa,2012, LAP LAMBERT Academic Publishing),p6
*5『Shebeen Culture in South Africa: Shebeen Culture』,p41
*6 『The Number』, p116
*7『Shebeen Culture in South Africa: Shebeen Culture』,p7
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