福田村事件、テキヤ組織の業界団体

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 1923年(大正十二年)9月1日関東大震災が起こりました。関東大震災以前(1923年以前)にもテキヤ組織は活動していました。

 1897年(明治三十年)前後、飯島源次郎はテキヤ組織「三階松一家」から独立し、東京で「飯島一家」を結成しました(*1)。1923年中谷政雄は京都市のテキヤ組織「高垣会」の舎弟となりました(*2)。京都市内では1923年以前から高垣会が活動していたことが分かります。高垣会はテキヤ組織「東京松前屋」を出身母体としていました(*2)。後の1930(昭和五)年中谷政雄は「中谷組」を結成しました(*2)。中谷組は京都市を活動範囲とし、中谷政雄自身は菓子商でした(*2)。

 また明治時代(1868~1912年)の横浜では、複数のテキヤ組織が集った団体(講社)が2つ(縁日講社と御供講社)活動していました(*3)。両講社とも「コロビ」(路上にゴザを敷き、その上に商品を置いて口上で販売していくこと)を主要稼業としていました(*3)。

 コロビ系露店商はゴザだけで「店」を仮設できた為、各地を移動しつつ、商売をしていました(*4)。裏返せばコロビ系露店商は、庭場(縄張り)を持っていなかったのです(*5)。明治時代まではコロビ系露店商は組織化していなかったものの、大正時代(1912~1926年)以降、コロビ系露店商は組織化していきました(*4)。極東、飯島、寄居、桝屋、丁字家のテキヤ組織は元々、コロビを主要稼業としていました(*4)。

 営業先(旅先)においてテキヤ組織の者は、地元テキヤ組織に対し「業界特有の定型的挨拶」をしました(*6)。業界特有の定型的挨拶をする(「仁義を切る」とも言います)ことは、博徒組織業界でもありました(*6)。

  関東大震災発生後、朝鮮人及び中国人が自警団によって関東各地で虐殺されました。大震災発生から5日後の1923年9月6日、千葉県東葛飾郡福田村(現在の野田市)で、福田村及び隣の田中村(現在の柏市)の住民達が、香川県から来ていた薬売りの行商団15人のうち9人を殺害しました(*7)。行商人の話した讃岐弁から、住民達は行商団を朝鮮人と間違って殺害したのです(*7)。被害側の行商団は当時、行商用の鑑札を持っていました(*7)。この殺害事件は「福田村事件」と呼ばれています(*7)。

 生き残った行商人6人のうち1人(福田村事件当時は13歳)が、1986年香川県歴史教育者協議会会長・石井雍大に対し証言をしました(*8)。証言によれば、被害側の行商団は、千葉県に行く前までは、群馬県前橋で1カ月ほど営業していました(*8)。行商団は主に正露丸を販売し、他の薬としては頭痛薬や風邪薬など、また学用品(鉛筆、靴、墨等)も販売していました(*8)。行商団は高松(香川県)で薬を仕入れていました(*8)。香川県の業務課が、行商団の鑑札を出していました(*8)。

 交通手段が限られていた当時、薬を容易に買いに行くことは難しく、行商は「薬の主要販売経路」でした(*9)。

 福田村事件の話が当時、行商人業界、テキヤ業界にどの程度広まったのかは不明です。しかし福田村事件は「営業先の土地で殺害された」という内容だけに、もし行商人業界、テキヤ業界の人々が福田村事件を知った場合、看過できなかったはずです。

 行商人業界の歴史は古く、江戸時代では近江商人、伊勢商人、富山の町の商人が「行商人」として活動していました(*10)。江戸幕府は1648年、近江商人に「行商」を許可しました(*10)。

 因果関係は不明ですが、その後テキヤ組織の業界団体が作られていきました。

 1924(大正十三)年1月テキヤ組織の業界団体(職能団体)「全国行商人先駆者同盟」が結成されました(*11)。全国行商人先駆者同盟は社会主義的思想を持つ団体で、全国(関東を除く)に16の支部を置いていました(*11)。しかし数年後には、全国行商人先駆者同盟は自然消滅に至りました(*12)。

 1926(大正十五)年11月「大日本神農会」が結成されました(*13)。大日本神農会は右翼的な組織でした(*12) (*13)。

 1927(昭和二)年「昭和神農実業組合」が結成されました(*14)。飯島一家の倉持忠助が昭和神農実業組合の結成を主導しました(*15)。倉持忠助は1890(明治二十三)年生まれで、演歌師として全国を移動しました(*16)。演歌師は路上で歌唱し、集まった人に対し歌本を販売していました(*16)。後に倉持忠助は、飯島一家・山田春雄の「舎弟」となり、飯島一家に入りました(*16)。露店商同様に演歌師も「路上」を営業領域とした為、演歌師にとって「テキヤ組織との親和性」は高かったのです(*16)。倉持忠助は大阪で活動していたこともあり、1919(大正八)年「演歌青年共鳴会」(大阪の演歌師業界団体)の設立を主導しました(*16)。

 昭和神農実業組合のトップ職は「組合長」で、倉持忠助が組合長に就き、松下榮次郎が副組合長に就きました(*17)。

 旧全国行商人先駆者同盟の勢力と大日本神農会は、昭和神農実業組合に統合されていきました(*14)。一方関西では1930(昭和五)年「関西神農聯合會」というテキヤ組織の業界団体(大型の組合)が結成されました(*17)。関西神農聯合會は大阪府公認の組織でした(*17)。34~35の組合が合併し、関西神農聯合會を作りました(*17)。実は大阪では1871年(明治四)年「大阪神農會」というテキヤ組織の業界団体が結成されていました(*17)。

  倉持忠助は1928(昭和三)年衆院議員選挙に立候補するものの、落選しました(*18)。2年後の1930(昭和五)年、倉持忠助は東京市会議員に当選、政界入りを果たしました(*18)。倉持忠助は政治家としては、主に電灯(電力)問題に取り組みました(*18)。夜間営業の露店は電灯を使うのですが、当時は電力会社から直接電力を購入できず、仲介業者から高い価格で電力の購入を余儀なくされていました(*18)。倉持忠助は「テキヤ業界のロビー活動」をする為に、政治家になったのかもしれません。

<引用・参考文献>

*1 『親分 実録日本俠客伝①』(猪野健治、2000年、双葉文庫), p122

*2  『テキヤと社会主義 1920年代の寅さんたち』(猪野健治、2015年、筑摩書房), p27-30

*3 『SANWA MOOK ウラ社会読本シリーズ⑤ 極東会大解剖 「強さ」を支えるのは流した血と汗の結晶だ!』(実話時代編集部編、2003年、三和出版), p31-32

*4 『新・ヤクザという生き方』「全丁字家誠心会芝山一家物語」(朝倉喬司、1998年、宝島社文庫), p224-225

*5 『テキヤの掟 祭りを担った文化、組織、慣習』(廣末登、2023年、角川新書),p44

*6 『現代ヤクザ大事典』(実話時代編集部編、2007年、洋泉社),p82-83

*7 『福田村事件 -関東大震災・知られざる悲劇』(辻野弥生、2023年、五月書房新社),p2-3

*8 『福田村事件 -関東大震災・知られざる悲劇』,p144-149

*9 『福田村事件 -関東大震災・知られざる悲劇』,p135

*10 『裏社会の日本史』(フィリップ・ポンス、安永愛 訳、2018年、ちくま学芸文庫),p467-469

*11 『任俠 実録日本俠客伝②』(猪野健治、2000年、双葉文庫), p150-162

*12 『任俠 実録日本俠客伝②』, p163-164

*13 『テキヤと社会主義 1920年代の寅さんたち』, p105-106

*14 『テキヤと社会主義 1920年代の寅さんたち』, p112-113

*15 『任俠 実録日本俠客伝②』, p165

*16 『テキヤと社会主義 1920年代の寅さんたち』, p68-72

*17 『社会学選書⑪ 露店研究』(横井弘三、2021年、いなほ書房),p110,173

*18 『テキヤと社会主義 1920年代の寅さんたち』, p114

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