幸平一家の縄張り

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 博徒組織「幸平一家」は、藤沢幸平によって興されました(*1)。藤沢幸平は元武士で役人を辞めた後、江古田(東京都中野区北東部、練馬区南東部一帯)で渡世人として成功、後に自身の組織(幸平一家)を立ち上げました(*1)。

 1881年(明治十四年)8月14日、沼袋(東京都中野区)の八幡神社祭礼の夜宮にて、幸平一家は賭場を開帳しました(*1)。しかし沼袋の八幡神社は、博徒組織「小金井一家」の縄張りでした(*1)。当時両団体の縄張りは、道1本を隔てて接している場合が多かったです(*1)。

 博徒組織における縄張りとは「賭場の開帳権を行使できる地理的範囲」のことを指しました(*2)。博徒組織内において「縄張りの所有権」は総長(博徒組織の最高位)に帰属しました(*3)。総長の下にいたのが貸元で、貸元が賭場を開設しました(*3)。また貸元は賭場を「定期開催」にするのか、それとも「不定期開催」にするのかを決めました(*3)。

 総長は縄張りの一部を貸元に預け、賭場における収益の一部を貸元から徴収しました(*3)。大規模な博徒組織では20人以上の貸元がいました(*3)。貸元は賭博の運営者であり、縄張りの管理人だったのです。

 当時、幸平一家において矢島金蔵(貸元)が、沼袋近くの縄張りを管理していました(*1)。小金井一家は「幸平一家の賭場開帳」を知り、小金井一家の村田市五郎(素人相撲の大関格)が8月14日23時頃その賭場に殴り込みました(*1)。しかし村田市五郎は幸平一家構成員らに棍棒などで打たれ、重傷を負わされました(*1)。幸平一家側は八幡神社を「幸平一家の縄張り」と思っており、ゆえに賭場を開帳したと主張しました(*1)。

 その後、博徒組織「落合一家」の仲裁により両団体は和解しました(*1)。和解時、沼袋の八幡神社の北側を「幸平一家の縄張り」、南側を「小金井一家の縄張り」とする取り決めがなされました(*1)。同時に、先述の村田市五郎(小金井一家)、江川平吉(幸平一家の者で、矢島金蔵の兄分)、雑司ヶ谷の浅井藤助(幸平一家の者)の3人が「五分の兄弟分」になりました(*1)。

 浅井藤助は後に幸平一家四代目総長に就きました(*4)。

 1885年(明治十八年)藤沢幸平(幸平一家初代)は死去しました(*4)。

 幸平一家五代目総長の森田音次郎は新宿・山吹町を拠点にして、また子分らは鶴巻町、早大付近を縄張りにしていたといわれています(*4)。

  1958年7月「日本国粋会」が結成されました(*5)。日本国粋会は連合型の組織で、複数の博徒組織により構成されていました(*5)。日本国粋会は表向き「政治結社」と名乗りました(*5)。博徒組織「生井一家」が日本国粋会結成において主導的な役割を果たしました(*6)。

 1958年7月の結成時、幸平一家は日本国粋会に加入していました(*5)。また先述の小金井一家、落合一家も日本国粋会に加入しました(*5)。日本国粋会の縄張りの1/3は「小金井一家の縄張り」といわれていました(*7)。

 一方で同年(1958年)、幸平一家は「滝野川一家」「土支田一家」「二本木小川一家」の3団体とともに、「友愛会」を結成しました(*8)。滝野川一家、土支田一家、二本木小川一家の3団体は博徒組織でした(*8)。友愛会結成時、本橋政雄が幸平一家九代目総長を務めていました(*4)。

 同年(1958年)は「港会」(現在の住吉会)も結成されていました(*8)。博徒組織「住吉一家」が港会の中核でした(*8)。後に友愛会は港会に加入しました(*8)。1964年10月港会は「住吉会」に改称しました(*8)。

 おそらく当時、幸平一家は日本国粋会に加入していた一方で、友愛会(つまり港会や住吉会)にも加入していたのでしょう。

 警察庁のヤクザ組織に対する取り締まり強化作戦(通称:頂上作戦)により、1965年5月住吉会は解散(*8)、同年(1965年)12月には日本国粋会も解散しました(*5)。

 1969年4月、旧住吉会勢力は「住吉連合」を結成しました(*9)。同年(1969年)には旧日本国粋会勢力も「日本国粋会」を再び立ち上げました(*5)。

 住吉連合の結成(1969年4月)直後、幸平一家は住吉連合に加入しました(*4)。おそらくこの時(1969年頃)、幸平一家は日本国粋会に加入せず、住吉連合だけ加入することにしたのだと考えられます。

 幸平一家の縄張り(1998~2000年頃)は池袋、目白、高田馬場、椎名町、長崎、江古田、中野新橋などでした(*4)。鉄道沿線では主に西武新宿線、西武池袋線の沿線に幸平一家の縄張りがありました(*4)。

 池袋、椎名町、長崎、江古田が西武池袋沿線です。高田馬場が西武新宿沿線です。目白は山手線沿線、中野新橋は現在の東京メトロ丸ノ内線沿線です。

 先述の土支田一家は、東武東上線、西武池袋線、西武新宿線の沿線に縄張りを持っていました(*10)。土支田一家は榎本新左衛門により興されました(*10)。

 初代・榎本新左衛門は北豊島郡大泉村元上土支田村(現在の東京都練馬区土支田)に生まれました(*10)。若かりし頃の榎本新左衛門は、「向山の栄五郎」の賭場に出入りしていました(*11)。向山(もしくは神山)とは東京都東久留米市にあった地名で、栄五郎は向山に住んでいました(*10)。

 そこで両者は知り合いになり、後に栄五郎は榎本新左衛門を子分にし、「清水一家」(清水次郎長総長)の下に預けました(*11)。

 栄五郎は「清水次郎長の五分の兄弟分」(*10)もしくは「清水次郎長の舎弟」(*11)でした。

 榎本新左衛門は清水一家で4年修行等をした後、栄五郎の組織(「向山一家」)に戻りました(*1)。栄五郎は榎本新左衛門に縄張りの一部を預け、榎本新左衛門を「向山一家の貸元」に「昇格」させました(*1)。

 榎本新左衛門が清水を去る際、清水次郎長は清水一家の構成員2名(「伊勢の多三郎」「遠州の駒吉」)を榎本新左衛門に譲渡しました(*1)。清水次郎長のもと、榎本新左衛門は伊勢の多三郎及び遠州の駒吉と親子盃を交わしました(*1)。伊勢の多三郎及び遠州の駒吉は「榎本新左衛門の子分」になったのでした。別の言い方をすれば、伊勢の多三郎及び遠州の駒吉は「清水一家」から「向山一家」に移籍したのでした。

 1875年(明治八年)、栄五郎は博徒組織「力山一家」との抗争で、相手側により殺害されました(*1) (*10) (*11)。

 栄五郎死去後、清水一家の清水次郎長総長は、榎本新左衛門と五厘下がりの兄舎弟盃を交わしました(*10)。榎本新左衛門が「清水次郎長の舎弟」になったことを機に、もしくはその前後に、榎本新左衛門は「向山一家」を引き継ぎ、後に「土支田一家」に改称したと考えられます。栄五郎は「土支田一家の始祖」だったのです。

 初代・榎本新左衛門は1888年(明治二十一年)9月28日、42歳で死去しました(*10)。一方で榎本新左衛門は1898年(明治三十一年)9月22日、病気により死去したとする資料もあります(*11)。

 佐久間忠次郎が土支田一家の二代目を継承しました(*10)。二代目総長・佐久間忠次郎はテキヤ組織「赤塚一家」の小倉親分と兄弟盃を交わしました(*10)。赤塚一家は川越街道の馬方をおさえ、現在の成増や東武練馬(東武東上線)付近で勢力を張っていました(*10)。

 土支田一家三代目総長・篠信太郎は1921年(大正十年)、「場所分け」をしました(*11)。場所分けとは「縄張り全部を貸元達に与えること」を意味しました(*12)。通常、場所分けができるのは「博徒組織の創設者」でした(*12)。

 場所分け後、世話役の者が博徒組織(1次団体)のまとめ役を担いました(*12)。場所分け後も、その博徒組織(1次団体)は存続していったのです。

 1921年の場所分けにおいて、佐久間浦吉が練馬町中村橋、中村新太郎が練馬町、佐久間長太郎が成増、松下助次郎が板橋、内野新蔵が所沢、阿部浩が埼玉膝打村、小山亀吉が埼玉志木町の縄張りを得ました(*11)。つまり1921年以前の土支田一家は、練馬町中村橋、練馬町、成増、板橋、所沢、埼玉膝打村、埼玉志木町を縄張りとしていたことが分かります。

 練馬町中村橋、練馬町、所沢は現在の西武池袋沿線です。所沢は現在、西武新宿線ともつながっています。成増、埼玉志木町は現在の東武東上線沿線です。

 元々、所沢は博徒組織・力山一家の縄張りでした(*1) (*11)。先述したように、栄五郎(土支田一家の始祖)は1875年(明治八年)、力山一家側に殺害されていました(*11)。初代・榎本新左衛門の時代(1875~1888or1898年)、土支田一家は栄五郎の復讐の為、力山一家を敵対視していました(*11)。両団体が抗争寸前になった時、他団体が仲裁に入りました(*11)。仲裁の結果、所沢の縄張りが土支田一家に譲渡されました(*11)。

 大正時代(1912~1926年)、土支田一家は毎月10日に練馬で賭場を開帳しました(*11)。土支田一家は、取り締まり対策として、賭場の場所を毎月変えていました(*11)。定期的に開帳された賭場は「常盆」と呼ばれました(*13)。例えば常盆が「二の付く日」だった場合、2日、12日、22日が賭場の開帳日(営業日)になりました(*13)。

 土支田一家三代目総長・篠信太郎と滝野川一家総長・小宮初五郎は「兄弟分」(義兄弟)の間柄でした(*11)。また篠信太郎は幸平一家六代目総長の足立勘助とも「兄弟分」の関係を有していました(*11)。

 1939年篠信太郎は病気により死去しました(*10)。一方、篠信太郎は1942年、病気により死去したとする資料もあります(*11)。

 先述したように鉄道沿線において幸平一家の縄張りは、主に西武新宿線、西武池袋線の沿線にありました。一方、土支田一家の縄張りは東武東上線、西武池袋線、西武新宿線の沿線にありました。両団体とも西武新宿線と西武池袋線の沿線に縄張りがあり、両団体の縄張りは距離的に近かったと考えられます。

 博徒業界では常盆の日は、「隣接する博徒組織の常盆の日」と被らないように、設定されました(*13)。

 先述したように小金井一家の縄張りは「日本国粋会の縄張りの1/3」といわれるほど広かったです。具体的に小金井一家の縄張りは、東京の中央線沿線一帯、新宿、川崎などでした(*14)。

 他団体は、小金井一家の縄張りを借りて、資金獲得活動をしていました(*14)。小金井一家は主に賭博業で資金獲得をしていました(*14)。小金井一家は、他団体が小金井一家の縄張り内で賭博業以外の資金獲得活動することを、許していました(*14)。他団体は小金井一家に「地代」(縄張りの借り賃)を払っていました(*14)。

 先述したように1881年沼袋(東京都中野区)の八幡神社祭礼の夜宮にて幸平一家が賭場を開帳したことで、小金井一家と幸平一家が揉めました。落合一家の仲裁で和解が成立した際、沼袋の八幡神社の北側を「幸平一家の縄張り」、南側を「小金井一家の縄張り」とする取り決めがなされました。

 沼袋は西武新宿線沿線にあります。沼袋の北側には西武池袋線があり、南側には中央線(JR)があります。先述したように幸平一家の縄張りは鉄道沿線では、主に西武新宿線、西武池袋線の沿線にありました。一方、小金井一家の縄張りは東京の中央線沿線にありました。

 「沼袋の八幡神社」ですが、現在その名前の神社はありません。調べたところ、現在中野区に「八幡」という名のつく神社として、大和町八幡神社(中野区大和町)と鷺宮八幡神社(中野区白鷺)の2つがあります。沼袋から近いのは大和町八幡神社(中野区大和町)です。「沼袋の八幡神社」が1881年以降に消滅した可能性もありますが、大和町八幡神社のことかもしれません。大和町八幡神社は西武新宿線と中央線の間に位置しています。

 幸平一家の縄張りの1つとして中野新橋がありました。中野新橋は中央線より南に位置しています。

 1972年頃、桶谷利太郎(幸平一家・榎本哲五郎の子分)は「中野新井花柳街一帯の親分」でした(*15)。桶谷利太郎は幸平一家の構成員だったのです。その後、桶谷利太郎が他団体に移籍した可能性もありますが、移籍していなかったら「幸平一家の貸元」として中野新井花柳街一帯(現在の中野区新井)を仕切っていたと考えられます。その場合、中野新井花柳街一帯は幸平一家の縄張りだった可能性があります。もし「沼袋の八幡神社」が大和町八幡神社であれば、地図で見る限り中野区新井の一部は大和町八幡神社よりやや南にあります。

 「沼袋の八幡神社を境に南北で縄張りを分ける」という取り決めは、一部(中野新橋、中野新井花柳街一帯)を除けば、後年も概ね履行されていたようです。

 小金井一家の東京勢力は2001年、住吉会に移籍しました(*16)。その際、小金井一家の川崎勢力は「稲川会」に移籍しました(*16)。2001年以降、東京の中央線沿線一帯及び新宿の縄張りは、住吉会に帰属することになったのです。当時、小金井一家は「二率会」(1次団体)に加盟していました(*16)。小金井一家が他団体に移籍したことで、二率会は2001年解散しました(*14)。

 小金井一家は「中杉一家」「辺見一家」とともに、1969年4月「国粋睦」(日本国粋会の後身)を脱退しました(*17)。その後、中杉一家と辺見一家は合併、「八王子一家」を結成しました(*17)。その後「親之助一家」も国粋睦を脱退しました(*17)。小金井一家、八王子一家、親之助一家の3団体は「二率会」を結成しました(*18)。

 幸平一家には池袋・椎名町の貸元(池袋及び椎名町の縄張りを預かる者)として石川三郎がいました(*4)。先述の本橋政雄(幸平一家九代目総長)は、石川三郎の子分でした(*4)。

 石川三郎の実子が石川照一でした(*4)。石川照一も幸平一家の親分級の者でした(*4)。1998~2000年頃、幸平一家・池袋貸元は五十嵐孝でした(*4)。五十嵐孝は石川照一の子分でした(*4)。1998~2000年頃、五十嵐孝は幸平一家内では「総長代行」を務め、住吉会では「総本部長」を務めていました(*4)。2001年9月五十嵐孝は住吉一家に移籍しました(*19)。矢野治(幸平一家の2次団体「矢野睦会」会長)が五十嵐孝より池袋の縄張りを引き継ぎました(*19)。その前月に「四ツ木斎場事件」が起きていました(*19)。

 昭和40年代前半(1965~1974年)の池袋において、幸平一家と「関口一門」(関口愛治系統のテキヤ組織群、その系統の一人親方群)のテキヤ組織が二大勢力でした(*20)。1972年暮れには、幸平一家の2次団体「池田会」が池袋に進出しました(*20)。池田会は池田烈をトップ(会長)とし、別名「住吉の武器庫」(幸平一家は「住吉連合会」に加盟しており、住吉連合会は後に「住吉会」と改称)と呼ばれていました(*21)。

 1978年以降の池袋では、「池田会」と「関口一門のテキヤ組織」の間で暴力沙汰が起きました(*20) (*21)。飲食店、キャバレー、クラブ、パチンコ店等からのミカジメ料徴収を巡り、両団体は争いました(*21)。

 1983年10月6日池袋にて池田会構成員が「警官発砲事件」を起こしました(*20) (*21)。当時池田会と関口一門のテキヤ組織(「極東関口会」の2次団体「三浦連合会」)の間では抗争が勃発する寸前で、警官達が三浦連合会系の事務所付近で警戒していました(*20)。警官達は挙動不審の2人(池田会構成員)を発見、声をかけました(*20)。

 声をかけられた2人は逃げ、その際に構成員の1人(辰力正雄)が拳銃で発砲(計3発)しました(*20) (*21)。1発目の弾は警官に当たらなかったものの、近くを歩いていた15歳の専門学校生の右耳をかすめ、専門学校生は10日間の怪我を負いました(*20) (*21)。2発目は誰にも当たらなかったですが、3発目が一人の警官に当たり、警官は重傷を負いました(*20) (*21)。発砲した池田会構成員(辰力正雄)は追ってくる警官を「三浦連合会系構成員」と間違って発砲した可能性も考えられました(*21)。

 事件の翌々日(10月8日)、住吉連合会は池田烈(池田会会長)、事件を起こした池田会構成員2人の計3人を赤字破門にしました(*20) 。当時の幸平一家総長は清水幸一でした(*21)。

 清水幸一は十一代目の総長でした(*4)。清水幸一は1929年生まれで、住吉一家の出身でした(*4)。清水幸一は28歳の時、幸平一家に移籍しました(*4)。

 ちなみに十代目総長の青田富太郎も住吉一家の出身でした(*4) (*8)。幸平一家の十代目及び十一代目は「住吉一家出身者」だったのです。

 十一代目清水幸一の死去後、総長代行の築地久松が十二代目を継承しました(*4)。築地久松は入間郡名栗村(現在の飯能市)に生まれ、名栗村に大豪邸を建てました(*22)。

 2007年十二代目築地久松が死去し、総長代行の加藤英幸が十三代目を継承しました(*23)。加藤英幸の率いた組織(「加藤総業」)は新宿で活動していました(*23)。加藤総業の後身が「加藤連合」でした(*24)。幸平一家総長代行時代の加藤英幸は、幸平一家内の「新宿落合貸元」でもありました(*24)。先述したように、2001年以前の新宿は小金井一家の縄張りでした。

 日本最大のヤクザ組織「山口組」内では若頭がナンバー2職であると同時に、「1次団体トップの後継者」であると認識されていました(*25)。幸平一家内では総長代行が「総長(トップ)の後継者」として位置づけされているのかもしれません。

 先述したように幸平一家と土支田一家は、西武新宿線と西武池袋線の沿線に縄張りがありました。西武新宿線の前身は西武鉄道村山線でした。西武鉄道村山線は1927年4月に開通しました(*26)。西武池袋線に関しては、武蔵野鉄道が池袋~飯能間を1915年4月に開業しました(*27)。当初、武蔵野鉄道は巣鴨を起点に計画していましたが、後に東上鉄道(現在の東武鉄道東上線)に合わせる形で池袋を起点とすることに変更しました(*28)。

 巣鴨は博徒組織・滝野川一家の縄張りでした(*29)。しかし二代目総長・小宮初五郎(土支田一家三代目総長・篠信太郎とは兄弟分)の時代、滝野川一家は巣鴨の縄張りを幸平一家貸元・中島長吉に無償で貸し出していました(*29)。貸し出しの際「一代限り」という条件がつけられていました(*29)。つまり中島長吉が貸元を引退する際、巣鴨の縄張りは滝野川一家に返すという約束でした。

 中島長吉の跡を継いだ田代久蔵(幸平一家貸元)は、約束を履行せず、巣鴨の縄張りを滝野川一家に返しませんでした(*29)。滝野川一家が巣鴨の縄張りを無償で貸し出すに至ったのは、滝野川一家初代総長・鈴木庄五郎が板橋にある幸平一家の賭場で借金を作ったことがきっかけでした(*29)。先述の中島長吉が借金の取り立ての為、滝野川一家に出向いたのですが、滝野川一家は支払い拒否しました(*29)。結果、先述の小宮初五郎が中島長吉をドスで切ってしまいました(*29)。中島長吉は重傷を負いました(*29)。小宮初五郎は旅に出ました(*29)。

 小宮初五郎は旅から戻った後、滝野川一家二代目を継承しました(*29)。また小宮初五郎(滝野川一家二代目総長)は幸平一家と和解する為、巣鴨の縄張りを「一代限り」の条件で中島長吉に貸し出すことにしたのでした(*29)。幸平一家側は「被害者」の立場であった訳で、ごねて、巣鴨の縄張りを返さなかったのだと考えられます。

 幸平一家七代目総長・高山寅吉の時代、幸平一家は巣鴨の縄張りを滝野川一家に返しました(*29)。

 東京の中央線(JR)に関しては、その前身は甲武鉄道(新宿~八王子間)でした(*30)。1906年10月甲武鉄道は国有化されました(*30)。中央線(JR)は輸送力、速達性に長けているといわれています(*31)。

 先述したように浅井藤助(後の幸平一家四代目総長)は、1881年(明治十四年)時、「雑司ヶ谷の浅井藤助」と呼ばれていました。1881年時、浅井藤助は「幸平一家の貸元」の一人で、雑司ヶ谷の縄張りを管理していたと思ってしまいそうです。

 しかし幸平一家六代目総長・足立勘吉体制時、「鳥屋一家」(博徒・赤丸市太郎)が雑司ヶ谷に縄張りを持っていました(*32)。鳥屋一家には赤丸市太郎しかいませんでした(*32)。赤丸市太郎は一人親方として雑司ヶ谷に賭場を開帳していたのでした。「鳥屋一家」(「鳥屋」)とは、博徒組織名ではなく、赤丸市太郎にとっての「屋号」だったのです。

 幸平一家六代目総長・足立勘吉体制以前の雑司ヶ谷に関しては、2つの可能性が考えられます。

 1つ目の可能性としては、単一の博徒組織が雑司ヶ谷一帯を縄張りとするのではなく、複数の博徒組織等が雑司ヶ谷に縄張りを持っていたことが考えられます。つまり幸平一家が「雑司ヶ谷の一部」を縄張りとし、鳥屋一家も「雑司ヶ谷の一部」を縄張りとしていた可能性が考えられます。

 2つ目の可能性としては、鳥屋一家が雑司ヶ谷一帯を縄張りとしており、浅井藤助(幸平一家四代目総長)は雑司ヶ谷にただ住んでいただけのことで「雑司ヶ谷の浅井藤助」と呼ばれていたことが考えられます。

 後に鳥屋一家の赤丸市太郎は戸田信太郎という者を抱えました(*32)。その後赤丸市太郎は「鳥屋一家の雑司ヶ谷の縄張り」を戸田信太郎に譲ると同時に、その戸田信太郎は幸平一家(六代目総長・足立勘吉体制)に移籍しました(*32)。戸田信太郎は、幸平一家内では先述の高山寅吉(後の七代目総長)の子分になりました(*32)。

 また当時の幸平一家は牛込も縄張りとしていました(*32)。ちなみに戦前(1941年以前)の博徒業界では、縄張りの境界線として概ね道路や川が採用されていました(*33)。

<引用・参考文献>

*1 『関東の親分衆 付・やくざ者の仁義 :沼田寅松・土屋幸三 国士俠客列伝より』(藤田五郎編集、1972年、徳間書店), p46-50,211

*2 『現代ヤクザ大事典』(実話時代編集部編、2007年、洋泉社),p61

*3 『親分 実録日本俠客伝①』(猪野健治、2000年、双葉文庫), p193-194

*4 『ヤクザ伝 裏社会の男たち』(山平重樹、2000年、幻冬舎アウトロー文庫), p156-160

*5 『洋泉社MOOK・ヤクザ・指定24組織の全貌』(有限会社創雄社・実話時代編集部編、2002年、洋泉社),p162-165

*6 『ヤクザ伝 裏社会の男たち』, p125

*7 『洋泉社MOOK・義理回状とヤクザの世界』(有限会社創雄社実話時代編集部編、2001年、洋泉社),p111

*8 『洋泉社MOOK・ヤクザ・指定24組織の全貌』, p44-46

*9 『ヤクザ・レポート』(山平重樹、2002年、ちくま文庫), p197

*10 『ヤクザ伝 裏社会の男たち』, p161-164

*11 『関東の親分衆 付・やくざ者の仁義 :沼田寅松・土屋幸三 国士俠客列伝より』,p208-210,212,221-225,242-245

*12 『関東の親分衆 付・やくざ者の仁義 :沼田寅松・土屋幸三 国士俠客列伝より』,p268-269

*13 『SANWA MOOK ウラ社会読本シリーズ⑦ 現代ヤクザマルチ大解剖』(有限会社創雄社・実話時代編集部編、2004年、メディアボーイ),p135

*14 『洋泉社MOOK・勃発!関東ヤクザ戦争』(有限会社創雄社『実話時代』田中博昭編、2002年、洋泉社),p14-15

*15 『九州やくざ者』(藤田五郎、1972年、徳間書店),p231

*16 『洋泉社MOOK・勃発!関東ヤクザ戦争』,p8-11

*17 『洋泉社MOOK・義理回状とヤクザの世界』,p111

*18 『洋泉社MOOK・勃発!関東ヤクザ戦争』,p28

*19 『マル暴 警視庁暴力団担当刑事』(櫻井裕一、2021年、小学館新書),p90,94

*20 『SANWA MOOK ウラ社会読本シリーズ⑤ 極東会大解剖 「強さ」を支えるのは流した血と汗の結晶だ!』(実話時代編集部編、2003年、三和出版),p80-83

*21 『新・ヤクザという生き方』「九州の雄 道仁会・三つの戦い!」(安田雅企、1998年、宝島社文庫),p105-112

*22 『永田町の黒幕を埋めた「死刑囚」の告白(週刊新潮) Kindle版』(週刊新潮編集部、2016年、新潮社)「2016年2月25日号 第1回  永田町の黒幕を埋めた「死刑囚」の告白」

*23 『『別冊 実話時代 龍虎搏つ!広域組織限界解析Special Edition』(2017年6月号増刊),p91

*24 『SANWA MOOK ウラ社会読本シリーズ⑦ 現代ヤクザマルチ大解剖』,p49

*25 『山口組の平成史』(山之内幸夫、2020年、ちくま新書),p38

*26 『日本鉄道史 大正・昭和戦前篇』(老川慶喜、2016年、中公新書),p90-91

*27 『日本鉄道史 大正・昭和戦前篇』,p120

*28 『日本の私鉄 西武鉄道』(広岡友紀、2009年、毎日新聞社),p53-54

*29 『ヤクザ伝 裏社会の男たち』, p116-118

*30 『日本鉄道史 大正・昭和戦前篇』,p92

*31 『日本の私鉄 西武鉄道』,p158

*32 『関東やくざ者』(藤田五郎、1971年、徳間書店),p210-213

*33 『関東やくざ者』,p11

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