博徒組織「幸平一家」は、藤沢幸平によって興されました(*1)。藤沢幸平は元武士で役人を辞めた後、江古田(東京都中野区北東部、練馬区南東部一帯)で渡世人として成功、後に自身の組織(幸平一家)を立ち上げました(*1)。
1881年(明治十四年)8月14日、沼袋(東京都中野区)の八幡神社祭礼の夜宮にて、幸平一家は賭場を開帳しました(*1)。しかし沼袋の八幡神社は、博徒組織「小金井一家」の縄張りでした(*1)。当時両団体の縄張りは、道1本を隔てて接している場合が多かったです(*1)。
博徒組織における縄張りとは「賭場の開帳権を行使できる地理的範囲」のことを指しました(*2)。博徒組織(一家)の最高位は総長でした(*3)。総長の下にいたのが貸元で、貸元が賭場を開設しました(*3)。また貸元は賭場を「定期開催」にするのか、それとも「不定期開催」にするのかを決めました(*3)。
総長は縄張りの一部を貸元に預け、賭場における収益の一部を貸元から徴収しました(*3)。言い換えますと、総長は貸元に縄張りを有償貸与し、貸元は賭場の収益の一部を「賃料」として総長に提供していたのです。
しかし「縄張りの所有権」は、総長ではなく、一家(博徒組織)に帰属しました(*2)。総長は一家内の縄張りを統括していたのであって、所有してはいなかったのです(*2)。総長は「一家の代表」として、縄張りを貸元に預けていたのです。
大規模な博徒組織では20人以上の貸元がいました(*3)。貸元は賭博の運営者であり、縄張りの管理人だったのです。
当時、幸平一家において矢島金蔵(貸元)が、沼袋近くの縄張りを管理していました(*1)。小金井一家は「幸平一家の賭場開帳」を知り、小金井一家の村田市五郎(素人相撲の大関格)が8月14日23時頃その賭場に殴り込みました(*1)。しかし村田市五郎は幸平一家構成員らに棍棒などで打たれ、重傷を負わされました(*1)。幸平一家側は八幡神社を「幸平一家の縄張り」と思っており、ゆえに賭場を開帳したと主張しました(*1)。
その後、博徒組織「落合一家」の仲裁により両団体は和解しました(*1)。和解時、沼袋の八幡神社の北側を「幸平一家の縄張り」、南側を「小金井一家の縄張り」とする取り決めがなされました(*1)。同時に、先述の村田市五郎(小金井一家)、江川平吉(幸平一家の者で、矢島金蔵の兄分)、雑司ヶ谷の浅井藤助(幸平一家の者)の3人が「五分の兄弟分」になりました(*1)。
浅井藤助は後に幸平一家四代目総長に就きました(*4)。
1885年(明治十八年)藤沢幸平(幸平一家初代)は死去しました(*4)。
幸平一家五代目総長の森田音次郎は新宿・山吹町を拠点にして、また子分らは鶴巻町、早稲田大学付近を縄張りにしていたといわれています(*4)。
1958年7月「日本国粋会」が結成されました(*5)。日本国粋会は連合型の組織で、複数の博徒組織により構成されていました(*5)。日本国粋会は表向き「政治結社」と名乗りました(*5)。博徒組織「生井一家」が日本国粋会結成において主導的な役割を果たしました(*6)。
日本国粋会の発会式(品川プリンスホテル)には幸平一家も参加していました(*5)。また先述の小金井一家、落合一家も日本国粋会に加入しました(*5)。日本国粋会の縄張りの1/3は「小金井一家の縄張り」といわれていました(*7)。
一方で同年(1958年)、幸平一家は「滝野川一家」「土支田一家」「二本木小川一家」の3団体とともに、「友愛会」を結成しました(*8)。滝野川一家、土支田一家、二本木小川一家の3団体は博徒組織でした(*8)。友愛会結成時、本橋政雄が幸平一家九代目総長を務めていました(*4)。
幸平一家が「日本国粋会で活動していた」もしくは「脱退した」という話は聞きません。おそらく幸平一家は発会式に参加といっても、「出席」しただけであり、日本国粋会に加盟はしていなかったと考えられます。もしくは幸平一家は結成時に加盟したものの、すぐに日本国粋会を脱退したのかもしれません。
同年(1958年)は「港会」(現在の住吉会)も結成されていました(*8)。博徒組織「住吉一家」が港会の中核でした(*8)。1964年10月港会は「住吉会」に改称しました(*8)。
警察庁のヤクザ組織に対する取り締まり強化作戦(通称:頂上作戦)により、1965年5月住吉会は解散(*8)、同年(1965年)12月には日本国粋会も解散しました(*5)。
1969年4月、旧住吉会勢力は「住吉連合」を結成しました(*9)。同年(1969年)には旧日本国粋会勢力も「日本国粋会」を再び立ち上げました(*5)。
住吉連合の結成(1969年4月)直後、幸平一家は住吉連合に加入しました(*4)。おそらくこの時(1969年頃)、幸平一家は日本国粋会に加入せず、住吉連合だけ加入することにしたのだと考えられます。
幸平一家の縄張り(1998~2000年頃)は池袋、目白、高田馬場、椎名町、長崎、江古田、中野新橋などでした(*4)。鉄道沿線では主に西武新宿線、西武池袋線の沿線に幸平一家の縄張りがありました(*4)。
池袋、椎名町、長崎、江古田が西武池袋線沿線です。高田馬場が西武新宿線沿線です。目白は山手線沿線、中野新橋は現在の東京メトロ丸ノ内線沿線です。
先述の土支田一家は、東武東上線、西武池袋線、西武新宿線の沿線に縄張りを持っていました(*10)。土支田一家は榎本新左衛門により興されました(*10)。
初代・榎本新左衛門は北豊島郡大泉村元上土支田村(現在の東京都練馬区土支田)に生まれました(*10)。若かりし頃の榎本新左衛門は、「向山の栄五郎」の賭場に出入りしていました(*11)。向山(もしくは神山)とは東京都東久留米市にあった地名で、栄五郎は向山に住んでいました(*10)。
そこで両者は知り合いになり、後に栄五郎は榎本新左衛門を子分にし、「清水一家」(清水次郎長総長)の下に預けました(*11)。
栄五郎は「清水次郎長の五分の兄弟分」(*10)もしくは「清水次郎長の舎弟」(*11)でした。
榎本新左衛門は清水一家で4年修行等をした後、栄五郎の組織(「向山一家」)に戻りました(*1)。栄五郎は榎本新左衛門に縄張りの一部を預け、榎本新左衛門を「向山一家の貸元」に「昇格」させました(*1)。
榎本新左衛門が清水を去る際、清水次郎長は清水一家の構成員2名(「伊勢の多三郎」「遠州の駒吉」)を榎本新左衛門に譲渡しました(*1)。清水次郎長のもと、榎本新左衛門は伊勢の多三郎及び遠州の駒吉と親子盃を交わしました(*1)。伊勢の多三郎及び遠州の駒吉は「榎本新左衛門の子分」になったのでした。別の言い方をすれば、伊勢の多三郎及び遠州の駒吉は「清水一家」から「向山一家」に移籍したのでした。
1875年(明治八年)、栄五郎は博徒組織「力山一家」との抗争で、相手側により殺害されました(*1) (*10) (*11)。
栄五郎死去後、清水一家の清水次郎長総長は、榎本新左衛門と五厘下がりの兄舎弟盃を交わしました(*10)。榎本新左衛門が「清水次郎長の舎弟」になったことを機に、もしくはその前後に、榎本新左衛門は「向山一家」を引き継ぎ、後に「土支田一家」に改称したと考えられます。栄五郎は「土支田一家の始祖」だったのです。
初代・榎本新左衛門は1888年(明治二十一年)9月28日、42歳で死去しました(*10)。一方で榎本新左衛門は1898年(明治三十一年)9月22日、病気により死去したとする資料もあります(*11)。
佐久間忠次郎が土支田一家の二代目を継承しました(*10)。二代目総長・佐久間忠次郎はテキヤ組織「赤塚一家」の小倉親分と兄弟盃を交わしました(*10)。赤塚一家は川越街道の馬方をおさえ、現在の成増や東武練馬(東武東上線)付近で勢力を張っていました(*10)。
土支田一家三代目総長・篠信太郎は1921年(大正十年)、「場所分け」をしました(*11)。場所分けとは「縄張り全部を貸元達に与えること」を意味しました(*12)。通常、場所分けができるのは「博徒組織の創設者」でした(*12)。
場所分け後、世話役の者が博徒組織(1次団体)のまとめ役を担いました(*12)。場所分け後も、その博徒組織(1次団体)は存続していったのです。
1921年の場所分けにおいて、佐久間浦吉が練馬町中村橋、中村新太郎が練馬町、佐久間長太郎が成増、松下助次郎が板橋、内野新蔵が所沢、阿部浩が埼玉膝打村、小山亀吉が埼玉志木町の縄張りを得ました(*11)。つまり1921年以前の土支田一家は、練馬町中村橋、練馬町、成増、板橋、所沢、埼玉膝打村、埼玉志木町を縄張りとしていたことが分かります。
練馬町中村橋、練馬町、所沢は現在の西武池袋線沿線です。所沢は現在、西武新宿線ともつながっています。成増、埼玉志木町は現在の東武東上線沿線です。
元々、所沢は博徒組織・力山一家の縄張りでした(*1) (*11)。先述したように、栄五郎(土支田一家の始祖)は1875年(明治八年)、力山一家側に殺害されていました(*11)。初代・榎本新左衛門の時代(1875~1888or1898年)、土支田一家は栄五郎の復讐の為、力山一家を敵対視していました(*11)。両団体が抗争寸前になった時、他団体が仲裁に入りました(*11)。仲裁の結果、所沢の縄張りが土支田一家に譲渡されました(*11)。
大正時代(1912~1926年)、土支田一家は毎月10日に練馬で賭場を開帳しました(*11)。土支田一家は、取り締まり対策として、賭場の場所を毎月変えていました(*11)。定期的に開帳された賭場は「常盆」と呼ばれました(*13)。例えば常盆が「二の付く日」だった場合、2日、12日、22日が賭場の開帳日(営業日)になりました(*13)。
土支田一家三代目総長・篠信太郎と滝野川一家総長・小宮初五郎は「兄弟分」(義兄弟)の間柄でした(*11)。また篠信太郎は幸平一家六代目総長の足立勘助とも「兄弟分」の関係を有していました(*11)。
1939年篠信太郎は病気により死去しました(*10)。一方、篠信太郎は1942年、病気により死去したとする資料もあります(*11)。
先述したように鉄道沿線において幸平一家の縄張りは、主に西武新宿線、西武池袋線の沿線にありました。一方、土支田一家の縄張りは東武東上線、西武池袋線、西武新宿線の沿線にありました。両団体とも西武新宿線と西武池袋線の沿線に縄張りがあり、両団体の縄張りは距離的に近かったと考えられます。
博徒業界では常盆の日は、「隣接する博徒組織の常盆の日」と被らないように、設定されました(*13)。
先述したように小金井一家の縄張りは「日本国粋会の縄張りの1/3」といわれるほど広かったです。具体的に小金井一家の縄張りは、東京の中央線沿線一帯、新宿、川崎などでした(*14)。
他団体は、小金井一家の縄張りを借りて、資金獲得活動をしていました(*14)。小金井一家は主に賭博業で資金獲得をしていました(*14)。小金井一家は、他団体が小金井一家の縄張り内で賭博業以外の資金獲得活動することを、許していました(*14)。他団体は小金井一家に「地代」(縄張りの借り賃)を払っていました(*14)。
先述したように1881年沼袋(東京都中野区)の八幡神社祭礼の夜宮にて幸平一家が賭場を開帳したことで、小金井一家と幸平一家が揉めました。落合一家の仲裁で和解が成立した際、沼袋の八幡神社の北側を「幸平一家の縄張り」、南側を「小金井一家の縄張り」とする取り決めがなされました。
沼袋は西武新宿線沿線にあります。沼袋の北側には西武池袋線があり、南側には中央線(JR)があります。先述したように幸平一家の縄張りは鉄道沿線では、主に西武新宿線、西武池袋線の沿線にありました。一方、小金井一家の縄張りは東京の中央線沿線にありました。
「沼袋の八幡神社」ですが、現在その名前の神社はありません。調べたところ、現在中野区に「八幡」という名のつく神社として、大和町八幡神社(中野区大和町)と鷺宮八幡神社(中野区白鷺)の2つがあります。沼袋から近いのは大和町八幡神社(中野区大和町)です。「沼袋の八幡神社」が1881年以降に消滅した可能性もありますが、大和町八幡神社のことかもしれません。大和町八幡神社は西武新宿線と中央線の間に位置しています。
幸平一家の縄張りの1つとして中野新橋がありました。藤田五郎によれば1971年頃、幸平一家の桶谷利太郎は、中野新橋一帯の縄張りを預かり、管理する身でした(*15)。中野新橋は中央線より南に位置しています。
また同じく藤田五郎によれば1972年頃、この桶谷利太郎(榎本哲五郎の子分)は「中野新井花柳街一帯の親分」でした(*16)。
1970年代前半、桶谷利太郎は幸平一家の貸元で、中野新橋一帯と中野新井花柳街一帯の縄張りを預かり、管理していたのです。
もし「沼袋の八幡神社」が大和町八幡神社であれば、地図で見る限り中野区新井の一部は大和町八幡神社よりやや南にあります。
「沼袋の八幡神社を境に南北で縄張りを分ける」という取り決めは、一部(中野新橋、中野新井花柳街一帯)を除けば、後年も概ね履行されていたようです。
小金井一家の東京勢力は2001年、住吉会に移籍しました(*17)。その際、小金井一家の川崎勢力は「稲川会」に移籍しました(*17)。2001年以降、東京の中央線沿線一帯及び新宿の縄張りは、住吉会に帰属することになったのです。当時、小金井一家は「二率会」(1次団体)に加盟していました(*17)。小金井一家が他団体に移籍したことで、二率会は2001年解散しました(*14)。
小金井一家は「中杉一家」「辺見一家」とともに、1969年4月「国粋睦」(日本国粋会の後身)を脱退しました(*7)。その後、中杉一家と辺見一家は合併、「八王子一家」を結成しました(*7)。その後「親之助一家」も国粋睦を脱退しました(*7)。小金井一家、八王子一家、親之助一家の3団体は「二率会」を結成しました(*18)。
幸平一家には池袋・椎名町の貸元(池袋及び椎名町の縄張りを預かる者)として石川三郎がいました(*4)。先述の本橋政雄(幸平一家九代目総長)は、石川三郎の子分でした(*4)。
石川三郎の実子が石川照一でした(*4)。石川照一も幸平一家の親分級の者でした(*4)。1998~2000年頃、幸平一家・池袋貸元は五十嵐孝でした(*4)。五十嵐孝は石川照一の子分でした(*4)。1998~2000年頃、五十嵐孝は幸平一家内では「総長代行」を務め、住吉会では「総本部長」を務めていました(*4)。2001年9月五十嵐孝は住吉一家に移籍しました(*19)。矢野治(幸平一家の2次団体「矢野睦会」会長)が五十嵐孝より池袋の縄張りを引き継ぎました(*19)。
昭和40年代前半(1965~1974年)の池袋において、幸平一家と「関口一門」(関口愛治系統のテキヤ組織群、その系統の一人親方群)のテキヤ組織が二大勢力でした(*20)。1972年暮れには、幸平一家の2次団体「池田会」が池袋に進出しました(*20)。池田会は池田烈をトップ(会長)とし、別名「住吉の武器庫」(幸平一家は「住吉連合会」に加盟しており、住吉連合会は後に「住吉会」と改称)と呼ばれていました(*21)。
1978年以降の池袋では、「池田会」と「関口一門のテキヤ組織」の間で暴力沙汰が起きました(*20) (*21)。飲食店、キャバレー、クラブ、パチンコ店等からのミカジメ料徴収を巡り、両団体は争いました(*21)。
1983年10月6日池袋にて池田会構成員が「警官発砲事件」を起こしました(*20) (*21)。当時池田会と関口一門のテキヤ組織(「極東関口会」の2次団体「三浦連合会」)の間では抗争が勃発する寸前で、警官達が三浦連合会系の事務所付近で警戒していました(*20)。警官達は挙動不審の2人(池田会構成員)を発見、声をかけました(*20)。
声をかけられた2人は逃げ、その際に構成員の1人(辰力正雄)が拳銃で発砲(計3発)しました(*20) (*21)。1発目の弾は警官に当たらなかったものの、近くを歩いていた15歳の専門学校生の右耳をかすめ、専門学校生は10日間の怪我を負いました(*20) (*21)。2発目は誰にも当たらなかったですが、3発目が一人の警官に当たり、警官は重傷を負いました(*20) (*21)。発砲した池田会構成員(辰力正雄)は追ってくる警官を「三浦連合会系構成員」と間違って発砲した可能性も考えられました(*21)。
事件の翌々日(10月8日)、住吉連合会は池田烈(池田会会長)、事件を起こした池田会構成員2人の計3人を赤字破門にしました(*20) 。当時の幸平一家総長は清水幸一でした(*21)。
清水幸一は十一代目の総長でした(*4)。清水幸一は1929年生まれで、住吉一家の出身でした(*4)。清水幸一は、向後平(住吉一家)の舎弟でした(*4)。清水幸一は28歳の時(1957年頃)、住吉一家から幸平一家に移籍しました(*4)。
ちなみに十代目総長の青田富太郎も住吉一家の出身でした(*4) (*8)。幸平一家の十代目及び十一代目は「住吉一家出身者」だったのです。
十一代目清水幸一の死去後、総長代行の築地久松が十二代目を継承しました(*4)。築地久松は入間郡名栗村(現在の飯能市)に生まれ、名栗村に大豪邸を建てました(*22)。
2007年十二代目築地久松が死去し、総長代行の加藤英幸が十三代目を継承しました(*23)。加藤英幸の率いた組織(「加藤総業」)は新宿で活動していました(*23)。加藤総業の後身が「加藤連合」でした(*24)。幸平一家総長代行時代の加藤英幸は、幸平一家内の「新宿落合貸元」でもありました(*24)。先述したように、2001年以前の新宿は小金井一家の縄張りでした。
日本最大のヤクザ組織「山口組」内では若頭がナンバー2職であると同時に、「1次団体トップの後継者」であると認識されていました(*25)。幸平一家内では総長代行が「総長(トップ)の後継者」として位置づけされているのかもしれません。
先述したように幸平一家と土支田一家は、西武新宿線と西武池袋線の沿線に縄張りがありました。西武新宿線の前身は、旧西武鉄道村山線でした。1927年4月、旧西武鉄道の村山線(東村山~高田馬場間)が開業しました(*26)。旧西武鉄道はすでに川越線(川越~国分寺間)を持っていました(*26)。川越線の前身は川越鉄道で、川越鉄道は1895年(明治二十八年)3月、開業しました(*26)。後に合併等を経て、旧西武鉄道が誕生しました(*26)。1927年4月村山線(東村山~高田馬場間)の開業により、東村山駅は川越線にもあった為、川越から高田馬場までが、電車での直通運転区間となりました(*26)。
西武池袋線に関しては、武蔵野鉄道が1915年(大正四年)4月、池袋~飯能間を開業しました(*27)。当初、武蔵野鉄道は巣鴨を起点に計画していましたが、後に東上鉄道(現在の東武鉄道東上線)に合わせる形で池袋を起点とすることに変更しました(*28)。
巣鴨(豊島区)は滝野川一家の縄張りでした(*29)。滝野川一家初代は鈴木庄五郎(1831年生まれ)でした(*29)。
1891年頃(明治二十四年頃)のある日、鈴木庄五郎(滝野川一家初代)は幸平一家の板橋の賭場に遊びに行きました(*29)。その賭場の貸元は加藤太七(幸平一家)でした(*29)。
その際、鈴木庄五郎は賭博で負けてしまい、幸平一家側に借金をしてしまいました(*29)。後日、幸平一家の中島長吉(加藤太七の子分)が鈴木庄五郎のもとに、借金の取り立てにやってきました(*29)。その時のやりとりから、滝野川一家の小宮初五郎は匕首で中島長吉を斬り、重傷を負わせてしまいました(*29)。小宮初五郎は逃亡しました(*29)。
滝野川一家(初代・鈴木庄五郎)はその償いとして、幸平一家側に「中島長吉一代限り」という条件をつけた上で巣鴨の縄張りを貸し出しました(*29)。中島長吉は重傷を負った代償として「巣鴨の貸元(幸平一家)」に昇格し、その中島長吉が引退した際には幸平一家が巣鴨の縄張りを滝野川一家に返還するという約束でした。
初代・鈴木庄五郎は1894年(明治二十七年)10月9日、病気により死去しました(*29)。鈴木庄五郎は死去前、小宮初五郎を二代目にするという遺言を残しました(*29)。小宮初五郎は二代目を継承しました(*29)。その二代目・小宮初五郎は1933年6月25日、病気により死去しました(*29)。
その後中島長吉が貸元を引退しましたが、幸平一家は滝野川一家との約束(巣鴨の縄張りを返還するという内容)を履行しませんでした(*29)。一方、滝野川一家(三代目・西村民蔵)も巣鴨の縄張りを奪い返す為、動いていきました(*29)。 土支田一家の三代目総長・篠信太郎が滝野川一家と幸平一家の仲介役を務めたこともあり(*29)、その後に幸平一家は巣鴨の縄張りを滝野川一家に返還したようです(*29)。滝野川一家三代目・西村民蔵は1951年4月17日、死去しました(*29)。
ちなみに滝野川一家は滝野川(現在の北区の一部)も縄張りとしていました(*30)。しかし元々、滝野川は、幸平一家と博徒組織「領家一家」の「かけつけ場所」でした(*30)。かけつけ場所とは、縄張り主の組織が確定されておらず、早く賭場を開帳した組織がテラ銭をとれる場所を指しました(*30)。かけつけ場所のルールとして、最初に賭場を開帳した組織がテラ銭の60%をとり、2番手以降の組織らが40%をとるというものがありました(*30)。かけつけ場所におけるテラ銭とは、手数料ではなく、賭博開帳の収益のことだったと考えられます。後に滝野川一家が滝野川を縄張りとしました(*30)。
東京の中央線(JR)に関しては、その前身は甲武鉄道(新宿~八王子)でした(*31)。1884年(明治十七年)4月、甲武鉄道(甲武馬車鉄道株式会社)が設立されました(*31)。1889年(明治二十二年)4月11日、甲武鉄道の新宿~立川間が開業しました(*31)。同年(1889年)8月11日、甲武鉄道の立川~八王子間が開業しました(*31)。1906年(明治三十九年)甲武鉄道は国有化されました(*31)。中央線(JR)は輸送力、速達性に長けているといわれています(*28)。
先述したように浅井藤助(後の幸平一家四代目総長)は、1881年(明治十四年)時、「雑司ヶ谷の浅井藤助」と呼ばれていました。1881年時、浅井藤助は「幸平一家の貸元」の一人で、雑司ヶ谷の縄張りを管理していたと思ってしまいそうです。
しかし幸平一家六代目総長・足立勘吉体制時、「鳥屋一家」(博徒・赤丸市太郎)が雑司ヶ谷に縄張りを持っていました(*32)。六代目総長・足立勘吉体制時の幸平一家は、池袋から板橋、牛込、江戸川にかけて縄張りを持っていました(*32)。江戸川とは、利根川の分流の方ではなく、現在の神田川の一部(大滝橋~JR飯田橋駅付近の船河原橋)を指していた川のことです。大滝橋~JR飯田橋駅付近の船河原橋の辺りも、幸平一家の縄張りだったのです。
鳥屋一家の話に戻ります。鳥屋一家には赤丸市太郎しかいませんでした(*32)。赤丸市太郎は一人親方として雑司ヶ谷に賭場を開帳していたのでした。「鳥屋一家」(「鳥屋」)とは、博徒組織名ではなく、赤丸市太郎にとっての「屋号」だったのです。
幸平一家六代目総長・足立勘吉体制以前の雑司ヶ谷に関しては、2つの可能性が考えられます。
1つ目の可能性としては、単一の博徒組織が雑司ヶ谷一帯を縄張りとするのではなく、複数の博徒組織等が雑司ヶ谷に縄張りを持っていたことが考えられます。つまり幸平一家が「雑司ヶ谷の一部」を縄張りとし、鳥屋一家も「雑司ヶ谷の一部」を縄張りとしていた可能性が考えられます。
2つ目の可能性としては、鳥屋一家が雑司ヶ谷一帯を縄張りとしており、浅井藤助(幸平一家四代目総長)は雑司ヶ谷にただ住んでいただけのことで「雑司ヶ谷の浅井藤助」と呼ばれていたことが考えられます。
後に鳥屋一家の赤丸市太郎は戸田信太郎という者を抱えました(*32)。その後赤丸市太郎は「鳥屋一家の雑司ヶ谷の縄張り」を戸田信太郎に譲ると同時に、その戸田信太郎は幸平一家(六代目総長・足立勘吉体制)に移籍しました(*32)。戸田信太郎は、幸平一家内では先述の高山寅吉(後の七代目総長)の子分になりました(*32)。戸田信太郎が幸平一家に移籍したことで、雑司ヶ谷は幸平一家の縄張りに確実になったと考えられます。
また当時の幸平一家は先述したように、牛込(現在の新宿区の一部)を縄張りとしていました。牛込は山手線の内側に位置しています。「牛込の三助部屋」という賭場が有名でした(*33)。1928年の初め頃、佐藤寅吉が「牛込の三助部屋」の貸元を務めていました(*33)。先代の貸元は中根長吉でした(*33)。
別の資料では、幸平一家に佐藤寅吉という者がおり、その幸平一家の佐藤寅吉は牛込を拠点にしていました(*34)。「牛込の三助部屋」の貸元は、幸平一家の佐藤寅吉だったと考えられます。幸平一家の佐藤寅吉の親分は、中根長次郎でした(*34)。中根長次郎は「中根長吉の別名」だったと思われます。
先述しましたように幸平一家五代目総長の森田音次郎は新宿・山吹町を拠点にして、また子分らは鶴巻町、早稲田大学付近を縄張りにしていたといわれています。この山吹町、鶴巻町、早稲田大学付近は牛込地域に属し、また江戸川(大滝橋~JR飯田橋駅付近の船河原橋)と呼ばれた神田川の一部の南側に位置しています。牛込地域、江戸川には西武新宿線及び西武池袋線は通っていません。
ちなみに戦前(1941年以前)の博徒組織業界では、縄張りの境界線として概ね道路や川が採用されていました(*35)。
先述しましたように西武新宿線の前身である旧西武鉄道の村山線(東村山~高田馬場間)は1927年4月開業しました。当初、村山線は早稲田(東京市電の終点)まで延長される予定でした(*26)。先述の山吹町及び鶴巻町は、早稲田(東京市電の終点)よりも東側に位置していました。
一方、1952年3月、西武鉄道村山線の高田馬場~西武新宿間が開業しました(*36)。村山線は結局、高田馬場から早稲田に延びることはなく、新宿に延びたのでした。この時(1952年3月)村山線は西武新宿線に改称しました(*36)。1952年時に旧西武鉄道はありませんでした。
1945年9月、先述の武蔵野鉄道は旧西武鉄道と食料増産会社を吸収合併し、新社名を「西武農業鉄道」にしました(*26)。翌1946年11月、西武農業鉄道は西武鉄道に改称しました(*26)。
関東大震災(1923年)以前、幸平一家の親分(貸元)が、新井・上高田一帯(新井、上高田ともに現在の中野区)を仕切っていました(*37)。つまり幸平一家が新井・上高田一帯を縄張りとしており、幸平一家総長がある貸元に預けて、管理させていたのです。その新井・上高田一帯の縄張りを預かっていた貸元が待合の設立を図った結果、1925年(大正十四年)11月に新井三業組合が設立されました(*37)。上高田は新井の東隣に位置しています。待合(もしくは「待合茶屋」)とは「客室があって、客がその客室に芸妓を招いて遊興する店」を指しました(*38)。芸妓とは「歌・舞踊・三味線などの芸をもって宴席に興を添えることを業とする女性=芸者」のことでした(*38)。
三業地とは「芸妓置屋、料理屋、待合の営業許可地区」を指しました(*38)。ちなみに二業地もありました。二業地は「芸妓置屋と料理屋(もしくは待合)の営業許可地区」を指しました(*38)。
花街(芸妓の営業地区。別名「花柳界」「花柳街」) (*38)は芸妓置屋、料理屋、待合の三業種で構成されていました(*39)。
芸妓置屋とは「芸妓を擁し、求めに応じて料理屋、待合、貸席、旅館などに芸妓を派遣する店」のことでした(*38)。料理屋とは「客室があって、客の注文に応じて料理を出すことを本業とする店」を指しました(*38)。料理屋に比し、先述の待合の方が密室性は高かったです(*38)。
太平洋戦争終了(1945年)後、料理屋と待合はまとめられ、「料亭」という言葉で呼ばれました(*39)。以降、花街は芸妓置屋と料亭の二業種で構成されました(*39)。
また花街には「検番」(券番、見番)という事務所がありました(*38)。検番は「芸妓置屋」から「料理屋」もしくは「待合」への芸妓派遣業務、「花代」(時間制の遊興料金)の清算業等を仕切っていました(*38)。芸妓置屋組合が検番を組織する場合が多かったです(*38)。
花街の料理屋、待合(戦後は料亭)では、時には密かに賭場も開帳されていたのかもしれません。花街の客層の一部には賭博にも興味を持っている者達がいたはずです。
先述した幸平一家の貸元・桶谷利太郎は1972年頃、中野新井花柳街一帯の縄張りを預かり、管理していました。先述の新井三業組合は1925年11月、この中野新井花柳街に設けられたのでした。
1925年(大正十四年)、幸平一家の貸元・田中仙太郎は東中野町、新井一帯に縄張りを持っていました(*40)。厳密にいえば、先述したように貸元は縄張りを「持つ」ことはできず、一家から「預かる」のみでした。
現在の 東中野には中央線(JR)が通っており、中野新井には西武新宿線が通っています。
そして、先述の新井三業組合設立(1925年11月)を図った幸平一家の貸元とは、田中仙太郎のことだったと考えられます。
田中仙太郎の子分(資料では「乾分」)には、大草宇一、竹内太郎、萩原亀吉、竹内松太郎、松原留吉がいました(*41)。
中野新井花柳街は、新井薬師(松高山梅照院薬王寺)の門前に設けられました(*37)。新井薬師では毎月「八」の付く日(8日、18日、28日)に縁日がありました(*37)。新井薬師の縁日では高市(たかまち)が開かれたと考えられます。高市とは、主に社寺の祭礼や縁日に合わせて開かれた仮設露店市のことでした(*42)。地元のテキヤ組織が高市を仕切りました(*42)。具体的には地元のテキヤ組織が露店商から場所代(通称:ショバ代)を徴収、高市における露店配置を決めました(*42)。その高市において昔の博徒組織は賭場を開帳しており、またその賭場は黙認されていました(*43)。幸平一家も新井薬師の縁日(8日、18日、28日)に賭場を開帳していたのかもしれません。
太平洋戦争中の戦災で新井薬師や氷川神社一帯は焼き尽くされ、中野新井花柳街もその被害を受けました(*37)。戦後、中野新井花柳街は復活し、1950年には料亭加盟組合数が30軒になっていました(*37)。しかし1972年の料亭加盟組合数は11軒であり、料亭加盟組合数は減っていきました(*37)。結果、1980~1981年頃、中野新井花柳街は消滅しました(*37)。1972年とは、幸平一家の桶谷利太郎が中野新井花柳街一帯の貸元だった頃です。
中野新橋にも花街(芸妓の営業地区)がありました。1928年、芸妓置屋と料理屋が中野新橋に開業し、中野新橋に「花街」が生まれました(*44)。1938年頃、中野新橋の料理屋は37軒、芸妓屋(芸妓置屋)45軒、芸妓115名、幇間2名がおり、この時期の中野新橋の花街は繁盛しました(*44)。太平洋戦争の空襲で中野新橋一帯は焼かれてしまい、花街業者の一部は、中野新井花柳街に移転しました(*44)。戦後、元の場所ではなく別の場所にて中野新橋の花街は復活しました(*44)。1955年、中野新橋の料亭40軒、芸妓置屋31軒、芸妓数は93人でした(*44)。しかし中野新橋花街も1985年のはじめに消滅したと考えられています(*44)。
牛込(神楽坂)にも花街がありました(*45)。また池袋西口には花街が1928年に生まれました(*46)。
ここまで挙げてきた幸平一家の縄張りを以下、時系列にまとめてみます。
・幸平一家五代目総長の森田音次郎は新宿・山吹町を拠点にして、また子分らは鶴巻町、早稲田大学付近を縄張りにしていたといわれています。森田音次郎(幸平一家五代目総長)は1945年6月25日、死去しました(*47)。
・1891年頃(明治二十四年頃)、幸平一家の貸元・加藤太七(幸平一家)は板橋の縄張りを預かっていました。
・関東大震災(1923年)以前、幸平一家の親分(貸元)が、新井・上高田一帯を仕切っていました。
・1925年(大正十四年)、幸平一家の貸元・田中仙太郎は東中野町、新井一帯に縄張りを預かり、監督していました。
・六代目総長・足立勘吉体制時の幸平一家は、池袋から板橋、牛込、江戸川(大滝橋~JR飯田橋駅付近の船河原橋)にかけて縄張りを持っていました。またこの六代目総長・足立勘吉体制時、戸田信太郎が雑司ヶ谷の縄張りとともに幸平一家に移籍しました。足立勘吉(幸平一家六代目総長)は1937年7月24日、死去しました(*47)。
ちなみに板橋は中山道の最初の宿場町であり、飯盛旅籠屋がありました(*48)。飯盛旅籠屋には「飯盛女(めしもりおんな)」と呼ばれた娼婦がいました(*48)。江戸幕府は板橋などの飯盛旅籠屋群の営業を黙認していました(*48)。板橋の飯盛旅籠屋の客層として農民がいて、そして博奕打ちもいました(*48)。博奕打ちとは「博徒組織の構成員」もしくは「博奕(賭博)で生計を立てている者」を指しました(*49)。
・1971年頃、幸平一家の桶谷利太郎は、中野新橋一帯の縄張りを預かり、管理する身でした。
・1972年頃、幸平一家の桶谷利太郎は「中野新井花柳街一帯の親分」でした。
・1998~2000年頃、幸平一家の縄張りは池袋、目白、高田馬場、椎名町、長崎、江古田、中野新橋などでした。鉄道沿線では主に西武新宿線、西武池袋線の沿線に幸平一家の縄張りがありました。
山吹町、鶴巻町、早稲田大学付近は牛込もしくは江戸川(大滝橋~JR飯田橋駅付近の船河原橋)に含まれるものとします。また中野新井花柳街一帯は新井一帯に含まれるものとします。滝野川一家の縄張りとなった巣鴨、滝野川は除外しました。
その上で、上記の地名を挙げますと板橋、牛込、江戸川(大滝橋~JR飯田橋駅付近の船河原橋)、雑司ヶ谷、上高田一帯、東中野町、新井一帯、池袋、目白、高田馬場、椎名町、長崎、江古田、中野新橋が幸平一家の縄張りでした。
「幸平一家が上記の縄張りを他組織から奪われてこなかった」という想定の下で、ここから話をすすめます。
上記の縄張りに現在の区名をつけていきますと、板橋(板橋区)、牛込(新宿区)、江戸川(新宿区や文京区)、雑司ヶ谷(豊島区)、上高田一帯(中野区)、東中野町(中野区)、新井一帯(中野区)、池袋(豊島区)、目白(豊島区)、高田馬場(新宿区)、椎名町(豊島区)、長崎(豊島区)、江古田(中野区や練馬区)、中野新橋(中野区)となります。
板橋区が1つ(板橋)、練馬区が1つ(江古田)、豊島区が5つ(雑司ヶ谷、池袋、目白、椎名町、長崎)、新宿区が3つ(高田馬場、牛込、江戸川)、文京区が1つ(江戸川)、中野区(上高田一帯、東中野町、新井一帯、江古田、中野新橋)が5つになります。
幸平一家の初代・藤沢幸平は元々、江古田で活動していました。幸平一家が江古田から始まったと考えますと、幸平一家は江古田から武蔵野鉄道の線(1915年4月開業。現在の西武池袋線)に沿う形で長崎→椎名町→池袋と進出し、その後、池袋から北上して板橋、南下して目白及び雑司ヶ谷と進出していったのではないかと考えられます。
また幸平一家は江古田の南側にある新井一帯(中野区の北部寄り)にも進出し、その後は東隣の上高田一帯に進出、また南下して東中野町、中野新橋に進出していったと考えられます。さらに幸平一家は新井一帯から旧西武鉄道村山線(1927年4月開業。現在の西武新宿線)に沿う形で、高田馬場に進出、また村山線が当初延長される予定だった早稲田がある牛込及び江戸川にも進出していったのかもしれません。しかし先述したように1928年の初め頃、佐藤寅吉が牛込の貸元を務めていました。その先代の貸元は中根長吉でした。この佐藤寅吉、中根長吉はともに幸平一家の者だと考えられますので、旧西武鉄道村山線開業(1927年4月)前から、幸平一家は牛込には進出していたのです。もしかしたら幸平一家は池袋から南下する経路にて、牛込、江戸川に進出したのかもしれません。
先述したように中央線(JR)の前身である甲武鉄道は1889年(明治二十二年)4月、新宿~立川間を開業させました。一方、旧西武鉄道は1927年4月、村山線(東村山~高田馬場間)を開業させました。村山線が新宿に延伸したのは1952年3月でした。鉄道のアクセス面だけから考えますと、戦前の幸平一家にとって池袋は「近く」、新宿は「遠く」にあったのです。
<引用・参考文献>
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*4 『ヤクザ伝 裏社会の男たち』(山平重樹、2000年、幻冬舎アウトロー文庫), p156-160
*5 『洋泉社MOOK・ヤクザ・指定24組織の全貌』(有限会社創雄社・実話時代編集部編、2002年、洋泉社),p162-165
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*9 『ヤクザ・レポート』(山平重樹、2002年、ちくま文庫), p197
*10 『ヤクザ伝 裏社会の男たち』, p161-164
*11 『関東の親分衆 付・やくざ者の仁義 :沼田寅松・土屋幸三 国士俠客列伝より』,p208-210,212,221-225,242-245
*12 『関東の親分衆 付・やくざ者の仁義 :沼田寅松・土屋幸三 国士俠客列伝より』,p268-269
*13 『SANWA MOOK ウラ社会読本シリーズ⑦ 現代ヤクザマルチ大解剖』(有限会社創雄社・実話時代編集部編、2004年、メディアボーイ),p135
*14 『洋泉社MOOK・勃発!関東ヤクザ戦争』(有限会社創雄社『実話時代』田中博昭編、2002年、洋泉社),p14-15
*15 『関東やくざ者』(藤田五郎、1971年、徳間書店),p187
*16 『九州やくざ者』(藤田五郎、1972年、徳間書店),p231
*17 『洋泉社MOOK・勃発!関東ヤクザ戦争』,p8-11
*18 『洋泉社MOOK・勃発!関東ヤクザ戦争』,p28
*19 『マル暴 警視庁暴力団担当刑事』(櫻井裕一、2021年、小学館新書),p90,94
*20 『SANWA MOOK ウラ社会読本シリーズ⑤ 極東会大解剖 「強さ」を支えるのは流した血と汗の結晶だ!』(実話時代編集部編、2003年、三和出版),p80-83
*21 『新・ヤクザという生き方』「九州の雄 道仁会・三つの戦い!」(安田雅企、1998年、宝島社文庫),p105-112
*22 『永田町の黒幕を埋めた「死刑囚」の告白(週刊新潮) Kindle版』(週刊新潮編集部、2016年、新潮社)「2016年2月25日号 第1回 永田町の黒幕を埋めた「死刑囚」の告白」
*23『別冊 実話時代 龍虎搏つ!広域組織限界解析Special Edition』(2017年6月号増刊),p91
*24 『SANWA MOOK ウラ社会読本シリーズ⑦ 現代ヤクザマルチ大解剖』,p49
*25 『山口組の平成史』(山之内幸夫、2020年、ちくま新書),p38
*26 『堤 康次郎 西武グループと20世紀日本の開発事業』(老川慶喜、2024年、中公新書),p204-208, 222
*27 『日本鉄道史 大正・昭和戦前篇』(老川慶喜、2016年、中公新書),p120
*28 『日本の私鉄 西武鉄道』(広岡友紀、2009年、毎日新聞社),p53-54,158
*29 『親分衆(関東編)』(藤田五郎、1989年、富士出版),p170-176,183
*30 『実証・日本のやくざ―正統派博徒集団の実像と虚像』(井出英雅、1973年、立風書房),p204
*31 『地図で読み解く JR中央線沿線』(監修:岡田直、文:栗原景、2020年、三才ブックス),p18-19,31
*32 『関東やくざ者』,p210-213
*33 『関東やくざ者』,p214-215
*34 『公安大要覧』(藤田五郎、1983年、笠倉出版社),p215
*35 『関東やくざ者』,p11
*36 『レッドアローとスターハウス もうひとつの戦後思想史』(原武史、2015年、新潮文庫),p95
*37 『東京 花街・粋な街』(上村敏彦、2008年、街と暮らし社),p187-188
*38 『花街 遊興空間の近代』「花街関連用語集」(加藤政洋、2024年、講談社学術文庫),p219-221
*39 『東京 花街・粋な街』,p13
*40 『仁義の祭り – 実録戦後やくざ史』「横浜極道者」(藤田五郎、1988年、青樹社),p122-124
*41 『公安百年史 - 暴力追放の足跡』(藤田五郎編著、1978年、公安問題研究協会),p734
*42 『盛り場の民俗史』(神崎宣武、1993年、岩波新書),p44-47
*43 『生活史叢書4 やくざの生活』(田村栄太郎、1994年、雄山閣),p164-165
*44 『東京 花街・粋な街』,p184-186
*45 『東京 花街・粋な街』,p67-79
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*47 『公安大要覧』,p213
*48 『洲崎遊廓物語』(岡崎柾男、1988年、青蛙房), p186-189
*49 『やくざ事典』(井出英雅、1971年、雄山閣出版),p55
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