東京の深川洲崎(には、かつて遊郭がありました(*1)。深川洲崎の遊郭地帯を縄張りとしていたのが、博徒組織「生井(なまい)一家」の貸元・井上吉五郎でした(*1) (*2)。博徒組織において縄張りとは「賭場開帳権を行使できる地理的範囲」を意味しました(*3)。生井一家は銀座も縄張りとしていました(*4)。
貸元は、博徒組織の最高位である「総長」の下に位置付けられていました(*5)。大規模な博徒組織では、20人以上の貸元がいました(*6)。各貸元は、総長から縄張りの一部を「預かる」という形で、縄張り内の賭博事業を監督していました(*5)。逆からいうと、総長は貸元側に「縄張りの監督」を任せていたのです。総長が各貸元を統治していたのです。
博徒組織内において縄張りの「所有権」は理屈上、総長にあったと考えられます。
初代総長(組織の設立者)の場合、引退時には2つの選択肢がありました(*7)。1つは、初代が次期総長を決め、その者に組織を譲渡するというものでした(*7)。
もう1つが、次期総長は設けられず、代わりに複数の世話人が設けられ、縄張りは各貸元に分けられるというものでした(*7)。各貸元への縄張り分割は「場所分け」と呼ばれました(*7)。
博徒組織「鯉淵一家」では、三代目の中野八百之介が1911年(明治四十四年)4月4日死去して以降、4人の貸元(和知吉太郎ら)が自律性を持って各地区(4地区)を治めることになりました(*8)。つまり鯉淵一家では、三代目(中野八百之介)の死去後、場所分けが行われたのです。鯉淵一家五代目の金成豊彦の時、場所分けは解消され、総長が各貸元を統治する体制が復活しました(*8)。
この場所分け(各貸元への縄張り分割)が、縄張りの「所有権移転」までを意味したのか、もしくは縄張りに「定期もしくは不定期の借地権」を与えた程度を意味したのかは、不明です。
世話人決めにおいては、初代が世話人を指名する場合もあれば、協議にて世話人が決められる場合がありました(*7)。「清水一家」初代の山本長五郎は引退時、次期総長を設けず、世話人を設けました(*7)。
二代目以降の総長の場合は、引退時には、「次期総長を決める」という1つの選択肢しかありませんでした(*7)。
貸元は、総長から預かった縄張り内にて、常設賭場(通称「定敷」)や不定期賭場(通称「臨時敷」)を開帳しました(*6)。貸元は、純利益(賭場の収益から経費を引いたもの)の10~50%を総長に上納しました(*6)。明治時代(1868~1912年)、北海道の博徒組織「丸茂一家」初代総長・森田常吉は各賭場から「利益の3割」を徴収していました(*9)。
貸元就任の経路は、主に2つありました。1つが「内部昇格」でした(*10)。もう1つは他団体トップが移籍し、移籍先トップ(総長)の配下になった上で、貸元になるというものでした(*10)。その際他団体トップは、縄張りを持って、移籍しました(*10)。
貸元の下に位置していたのが「代貸」でした(*5)。代貸は「賭場の最高責任者」でした(*5)。代貸は飲食店等における「雇われ店長」のような役割を果たしていたと考えられます。実力のある貸元は、4~5人の代貸を擁していました(*6)。
博徒組織において総長は貸元側に「縄張りの監督」を任し、貸元は代貸側に「賭場の監督」を任していたのです。
井上吉五郎は後に、生井一家の五代目総長に就任しました(*2)。資料によっては、井上吉五郎は「生井一家三代目」となっていました(*2)。総長に就任したことから、井上吉五郎が貸元として優秀だったことが窺えます。
井上吉五郎の時代、生井一家は深川洲崎、銀座、八丁堀、蠣殻(かきがら)町、深川扇橋、大工町、上州高崎を縄張りとしていました(*11)。このうち東京にあったのが深川洲崎、銀座、八丁堀、蠣殻町、深川扇橋、大工町でした。銀座、八丁堀、蠣殻町、大工町は隅田川以西にありました。一方、深川洲崎、深川扇橋は隅田川以東にありました。
蠣殻町では第1次世界大戦(1914~1918年)頃から、「天災」という賭博が流行りました(*12)。天災は、特殊なサイコロ(六面体のうち三面が白、三面が黒)が5個用いられました(*12)。天災は「胴親」対「張り子」の賭博で、「どちらの色が多く出るのか」(3個以上出た色が勝利しました)が賭けられていました(*12)。当時(第1次世界大戦の頃)、他の賭博では賭け金の下限は概ね1円でしたが、天災における賭け金の下限は10円でした(*12)。賭け金額が多いと、配当額も多くなります。天災は、上州(今の群馬県)でも流行りました(*12)。先述したように、生井一家は蠣殻町と上州の高崎に縄張りを持っていました。どちらの地で先に天災が流行り出したかは分かりませんが、天災は生井一家のネットワークに接続することで伝わり、蠣殻町と上州で流行るようになったのかもしれません。
1899年(明治三十二年)頃、井上吉五郎(生井一家五代目総長)と先述の丸茂一家総長の森田常吉は、五分の兄弟盃を交わしました(*13)。井上吉五郎と森田常吉は、五分と五分の呑み分けの兄弟分となりました(*13)。
井上吉五郎の死去後、武部申策は生井一家の貸元になり、深川洲崎の縄張りを手中に収めました (*1)。武部申策は和歌山の出身で上京後、井上吉五郎の客分になっていました(*1)。武部申策が上京したのは1882~1883年頃(明治十五年、十六年頃)でした(*1)。
深川洲崎の縄張りに関しては、井上吉五郎の生前中に、武部申策が「井上吉五郎の舎弟」になり、同時に生井一家の貸元にもなって深川洲崎の縄張りを監督していったという説もあります(*11)。
また同じ生井一家の竹内寅吉の縄張りが武部申策に譲渡されました(*1)。大正時代(1912~1926年)から昭和初期、武部申策は深川洲崎を中心に東京で大きな勢力を築きました(*2)。
武部申策は目黒の競馬場も縄張りとしていました(*14)。合法領域では1906年(明治三十九年)「東京競馬協会」が発足、以後2年のうちに全国に13カ所の公許競馬場が設けられました(*15)。目黒の競馬場は、13カ所のうちの1つでした(*15)。
公許競馬場では馬券が発売されました(*15)。そのうちに違法領域では「私設馬券売場」が営業を開始していきました(*15)。
1908年(明治四十一年)合法領域では「馬券売買禁止令」が発せられました(*15)。1923年(大正十二年)馬券発売が再開されました(*15)。馬券発売禁止の間(1908~1923年)、各公許競馬場は秘かに馬券を発売していまいした(*15)。
おそらく武部申策は目黒の競馬場における「私設馬券売場」を仕切っていたと考えられます。また馬券発売禁止の間(1908~1923年)、私設馬券売場の需要は高まっていたことが考えられます。
武部申策は生井一家の貸元であった一方、自身の組織を「武部組」と称していました(*16)。武部組は勢力を拡張し、3,000人の子分を擁していたといわれています(*16)。
武部申策の子分には田島将光(*17)、沼田寅松(*14)がいました。武部組は、毎月1日、深川不動尊に参っていました(*17)。田島将光は後に「総会屋の大親分」になりました(*18)。
元々、親分の武部申策が明治三十年代(明治三十年=1897年)から昭和時代(1926~1989年)の初期まで総会屋のトップとして君臨していました(*16)。東京商工会議所会頭、元東京株式取引所理事長の郷誠之助が、各企業の総会における「用心棒的役割」を武部申策に依頼したことを機に、武部申策は総会屋になっていきました(*16)。
子分の田島将光が、武部申策の総会屋業のほとんどを受け継ぎました(*16)。当時の総会屋業界は、この武部系と千春系が二大勢力でした(*16)。千春系とは、千春伊之吉とその系統の勢力を指しました(*19)。千春伊之吉は元々、相場師で、1907年(明治四十年)頃総会屋に転身しました(*19)。千春伊之吉は、配下の山本岩夫に雑誌『東京時事通信』を手掛けさせていました(*19)。『東京時事通信』では企業の悪事が暴露されました(*19)。千春伊之吉は総会屋の活動において『東京時事通信』を利用しました(*19)。
最後に生井一家の縄張りの話に戻ります。生井一家は深川一円を縄張りにしていたという資料があります(*20)。先述したように、五代目・井上吉五郎の時代、生井一家は深川洲崎、深川扇橋を縄張りにしていました。また深川元加賀町(現在の江東区三好町四丁目)も生井一家の縄張りでした(*21)。ちなみに深川とは行政組織としては深川区(東京府東京市)のことで、今の江東区西部一帯のことです。
しかし実際は他団体も深川で活動していました。博徒組織「江島一家」は深川海辺大工町(現在の江東区白河町)を縄張りにしていました(*21)。1,907年(明治四十年)頃、飯島富七が江島一家を結成しました(*22)。江島一家は、博徒組織「上萬一家」の身内でした(*22)。江島一家の出身母体は上萬一家だったと考えられます。上萬一家は、初代・藤江万吉(1897年死去)の時代、東西では両国から千葉の船橋まで、南北では東京湾から北松戸までを縄張りとしていました(*23)。
1926年(大正十五年)頃、定期航路の1つとして「行徳航路」がありました(*24)。行徳航路は、深川の高橋から小名木川を通り、江戸川に出て行徳(千葉県)に行く航路でした(*24)。太平洋戦争終了(1945年)後、行徳は上萬一家の縄張りでした(*22)。おそらく初代・藤江万吉(1897年死去)の時代からも行徳は上萬一家の縄張りだったと考えられます。深川(生井一家と江島一家の縄張り)と行徳(上萬一家の縄張り)は航路で結ばれていたのです。
深川の高橋は、昔「富川町」と呼ばれていました(*25)。戦前(1941年以前)富川町は貧民窟であり、安宿群がありました(*25)。
また1926年頃「上川航路」という定期航路もありました(*24)。上川航路は、両国から小名木川を通って、江戸川を遡り、利根川に出て栃木県新波(現在の栃木市藤岡町)に行く航路でした(*24)。利根川から栃木県新波までは、渡良瀬川を遡り、その後に巴波川を通りました。先述したように両国も上萬一家の縄張りでした。
小名木川と江戸川を結んでいたのは船堀川(新川)でした(*26)。上川航路の船は隅田川→小名木川の後、船堀川を通って江戸川に入っていったと考えられます。
渡良瀬川は茨城県古河市で利根川に合流します。古河は、生井一家にとって縁のある土地でした(*27)。生井一家の二代目・辺見貞蔵は1820年(文政三年)、下総国古河在(古河市)上辺見村で生まれました(*27)。四代目・小川卯兵衛の時、生井一家は東京に進出しました(*2)。古河には生井一家の一部勢力が残りました(*27)。古河も生井一家の縄張りだったのです。
生井一家の初代は生井弥兵衛でした(*28)。生井弥兵衛は1794年(寛政六年)、下野国都賀郡下生井村(現在の栃木県小山市)に生まれました(*28)。下生井村(現在の栃木県小山市)付近には思川が通っていました。思川を下れば、渡良瀬川に合流します。
1877年(明治十年)内国通運会社は、東京の深川~生井河岸(思川)までの航路を開業しました(*29)。この航路では洋式蒸気船「通運丸」が用いられました(*29)。が生井河岸(思川)は、生井弥兵衛の故郷である下生井村とは距離的に近かったと考えられます。
下生井村、古河、深川の3つは河川水運でつながっていたのです。
ちなみに江戸時代では船の中で賭博が行われていました。1771年(明和八年)、船中賭博の禁令が出されました(*30)。
またアメリカ合衆国ではミシシッピ川を通航する船の中で賭博が行われていました。ミシシッピ川は、ミシガン湖の南端から流れ、ニューオーリンズを河口としています(*31)。18世紀以降、平底舟がミシシッピ川流域から採れた農作物や木材を南側に輸送する為、ミシシッピ川を通航しました(*31)。後に蒸気船が平底舟から輸送の役割を奪い取りました(*31)。ミシシッピ川を通航した平底舟や蒸気船の中において賭博は行われていました(*31)。ミシシッピ川河口で航路の終点であったニューオーリンズでは多数の賭場が営業していたといわれています(*31)。
<引用・参考文献>
*1 『任俠 実録日本俠客伝②』(猪野健治、2000年、双葉文庫), p44
*2 『洋泉社MOOK・義理回状とヤクザの世界』(有限会社創雄社実話時代編集部編、2001年、洋泉社), p72-73
*3 『現代ヤクザ大事典』(実話時代編集部編、2007年、洋泉社), p61
*4 『現代ヤクザ大事典』,p42-43
*5 『現代ヤクザ大事典』, p16-17
*6 『親分 実録日本俠客伝①』(猪野健治、2000年、双葉文庫),p194
*7 『関東の親分衆 付・やくざ者の仁義 :沼田寅松・土屋幸三 国士俠客列伝より』(藤田五郎編集、1972年、徳間書店),p268-269
*8 『親分衆(関東編)』(藤田五郎、1989年、富士出版),p72,91-92
*9 『やくざ逆破門状 実録・北海の抗争』(藤田五郎、1973年、徳間書店),p88-89
*10 『関東の親分衆 付・やくざ者の仁義 :沼田寅松・土屋幸三 国士俠客列伝より』,p270
*11『関東やくざ者』(藤田五郎、1971年、徳間書店),p43-46
*12『やくざ事典』(井出英雅、1971年、雄山閣出版),p250-251
*13 『やくざ逆破門状 実録・北海の抗争』,p119,124
*14『関東やくざ者』,p60
*15『日本賭博史』(紀田順一郎、2025年、ちくま学芸文庫),p166-169
*16『公安大要覧』(藤田五郎、1983年、笠倉出版社),p183
*17『関東やくざ者』,p54
*18『関東やくざ者』,p51
*19『公安大要覧』,p182
*20『関東やくざ者』,p26
*21『関東やくざ者』,p82
*22『公安大要覧』,p227
*23『公安大要覧』,p228
*24『<ふるさと文庫・千葉> 利根運河 ― 利根・江戸川を結ぶ船の道』(北野道彦、1977年、崙書房),p106-107
*25『親分衆(関東編)』,p111
*26『<ふるさと文庫> 船頭 ― 利根川水運の人びと』(渡辺貢二、1979年、崙書房),p14
*27 『ヤクザ伝 裏社会の男たち』(山平重樹、2000年、幻冬舎アウトロー文庫),p269
*28 『任俠百年史物語Ⅰ 関東稲妻親分衆』(藤田五郎、1980年、笠倉出版社),p30-31
*29 『河岸に生きる人びと:利根川水運の社会史』(川名登、1982年、平凡社),p304
*30 『江戸のギャンブル』(有澤真理、2017年、歴史新書、洋泉社),p148-149
*31 『<ものと人間の文化史 40-Ⅱ> 賭博 Ⅱ』(増川宏一、1982年、法政大学出版局),p348-350
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