小金井一家の縄張り

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 博徒組織「小金井一家」は幕末、小金井小次郎(本名:関小次郎)によって結成されました(*1) (*2)。小金井小次郎は1818年(文政元年)、小金井村で生まれました(*1)。

 後に小金井小次郎は藤屋の万吉(本名:市村万吉)の子分となり、博徒組織「藤屋一家」の構成員として活動していきました(*1)。藤屋の万吉は1800年(寛政十二年)に生まれ、博徒組織・藤屋一家を結成しました(*1)。藤屋一家は府中を中心に広大な縄張りを持っていました(*1)。藤屋の万吉は「府中の万吉」とも呼ばれていました(*1)。博徒組織における縄張りとは「賭場開帳権を行使できる地理的範囲」を意味しました(*3)。

 府中は甲州街道の宿場町で、次の宿場町が日野でした(*4)。府中と日野の間には多摩川が流れています。日野の次の宿場町は八王子でした(*4)。府中には大國魂神社がありました(*4)。甲州街道は日本橋を起点とし、内藤新宿から下諏訪までを結んでいました(*4)。

 小金井小次郎は25歳の時(1843年頃か)、親分・藤屋の万吉から、小金井村一帯の縄張りを預かることになりました(*1)。小金井小次郎は、この時に藤屋一家の「貸元」になったのです。貸元とは、博徒組織の総長(最高位)から縄張りの一部を預かり、監督する者のことでした(*5)。博徒組織では総長が縄張りを貸元らに貸与していたのです。大規模な博徒組織では20人以上の貸元がいました(*6)。

 例えば博徒組織「上萬(上万)一家」初代・藤江万吉の時代、上萬一家には36人の貸元がいました(*7)。藤江万吉は1897年(明治三十年)5月15日に死去しました(*7)。上萬一家(初代・藤江万吉の時代)は東西では両国から千葉の船橋まで、南北では江戸湾から北松戸までの地域を縄張りとしていました(*7)。

 貸元は預かった(総長より貸与された)縄張り内での賭博事業の最高責任者でした(*6)。貸元の配下には「代貸」がおり、代貸が賭場の責任者として、賭場を仕切りました(*6)。一方、貸元は賭場において客に賭け金を貸しました(*5)。戦前(1941年以前)の貸元は、「所持金の3割」を上限として客に賭け金を貸していました(*5)。有力な貸元は4~5人の代貸を擁していました(*6)。

 賭場の開帳者(貸元ら)はテラ銭を徴収していまいた(*8)。テラ銭とは手数料のことで、賭博の内容によって徴収先は変わりました(*8)。「胴親」対「張子」(ちょぼいち、狐、ヨイド等) (*9)の賭博では、賭場開帳者は胴親からテラ銭を徴収しました(*8)。一方「張子」対「張子」(丁半、ぴん転がし等)(*9)の賭博では、賭場開帳者は「勝者の張子」からテラ銭を徴収していました(*8)。

 テラ銭の割合は一般的に五分(5%)でしたが、四分(4%)という場合もありました(*10)。

 賭場開帳組織(貸元の組織)は、テラ銭などの収益から、「敷代」(賭場になった施設の賃貸料金)、「メリ銭」(客の車代、賭博進行を手伝った者への支払い金)、「エンソ」(子分らの食費)を払いました(*10)。その残金(収益-総費用)は「オドミ」と呼ばれました(*10)。貸元はオドミの一部を総長に上納しました(*6)。総長への上納額は、オドミの1~5割といわれていましたが、その割合は一定していませんでした(*6)。

 総長への上納金を除外したオドミは「親分」(貸元)と「子分ら」で配分されました(*10)。一般的な割合は「親分」(貸元)に七割、「子分ら」に三割でした(*10)。博徒組織では親分が子分らに金を提供していたのでした。

 他組織の者が貸元に対し、その貸元の預かる縄張り内での賭場開帳を申請することがありました(*11)。貸元が自身の縄張り内において他組織の賭場開帳を承認した場合、他組織から収益の一部を徴収しました(*11)。その徴収金は「カスリ」と呼ばれました(*11)。カスリの額は、収益の70%もしくは60%でした(*11)。逆にいえば、他所の縄張り内で賭場を開帳する者は、収益の70%もしくは60%を、その縄張りの貸元に払っていたのです。

 藤屋一家の貸元・小金井小次郎は1856年(安政三年)、賭博罪で三宅島に流されました(*1)。小金井小次郎は1866年(慶応二年)まで三宅島で過ごしました(*1)。三宅島にいた期間の1864年(文久四年)、親分・藤屋の万吉が死去しました(*1)。

 博徒組織業界では組織の創設者(初代)が引退する際、「誰かに跡目を相続させる方法」もしくは「縄張りを貸元らに分け与える方法」(通称:場所分け)のどちらかがとられました(*12)。藤屋の万吉は、藤屋一家の結成者でした。藤屋の万吉は、小金井小次郎ら貸元に縄張りを分け与えることを選びました(*12)。

 この場所分けが「貸与」の色合いが濃いものだったのか、それとも「分割」の色合いが濃いものだったのかは、筆者の手元の資料からでは不明です。貸元側からすれば「返却義務のある縄張り」よりも、「返却義務のない縄張り=実質自身の保有する縄張り」の方が望ましです。

 その後、小金井小次郎は旧藤屋一家の縄張りの大部分を吸収し、小金井一家の版図を拡大させました(*12)。小金井小次郎は1881年(明治十四年)6月9日に死去しました(*13)。小金井小次郎の墓は、小金井市の金蔵院にありました(*2)。

 小金井小次郎も晩年、小金井一家の縄張りを貸元らに分け与えることにしました(*1)。その後、小金井一家は総長を設けず、世話役体制をとりました(*14) 。小金井一家長老らが東京方面から1名、神奈川方面から1名を世話役に推薦し、計2名の世話役が選ばれまれした(*14)。2名の世話役は合議して、小金井一家全体を運営してきました(*14)。多摩川が境となり、多摩川以北(以東)の東京方面の世話役は「北八幡の総長」、多摩川以南(以西)の神奈川方面の世話役は「南八幡の総長」と呼ばれました(*14)。

 小金井小次郎の死去した1881年(明治十四年)頃、府中及び小金井は神奈川県北多摩郡に属していました(*15)。当時、府中及び小金井は神奈川県だったのです。

 1893年(明治二十六年)4月1日、北多摩郡・南多摩郡・西多摩郡の3郡は、神奈川県から東京府に移管されました(*16)。

 1878年(明治十一年)~1893年の東京府は、15区と6郡(荏原郡、東多摩郡、南豊島郡、北豊島郡、南足立郡、南葛飾郡)で構成されていました(*16)。1889年(明治二十二年)5月1日、東京府の15区が「東京市」になり、東京市が誕生しました(*16)。15区は「東京市の15区」になったのでした。1893年4月1日、北多摩郡・南多摩郡・西多摩郡が移管されたことで、東京府は1市9郡の構成となりました。1896年(明治二十九年)、南豊島郡と東多摩郡が合併し、豊多摩郡が誕生しました(*16)。1896年以降の東京府は1市8郡の構成となりました。

 小金井一家の話に戻します。ある時期は平松兼三郎が北八幡総長、西村林右衛門が南八幡総長を務めていました(*17)。小金井一家の「四軒寺(しけんでら)」(小金井一家内における貸元級の稼業名)四代目貸元・田中三次は1924年(大正十三年)引退しました(*17)。「四軒寺」の貸元は元々、吉祥寺の縄張りを預かっていました(*17)。田中三次は1894年(明治二十七年)、「四軒寺」四代目を継承し、小金井一家の貸元になりました(*17)。田中三次は引退(1924年)後も、小金井一家の長老として相談役を務めました(*18)。この田中三次らが世話役に推薦したのが、平松兼三郎(北八幡総長)と西村林右衛門(南八幡総長)でした(*14)。

 小金井一家内には貸元級の稼業名として「新宿」「神奈川」がありました(*19)。北八幡総長の平松兼三郎は小金井一家内において「新宿」二代目貸元でした(*19)。小金井一家内には「十二社(じゅうにそう)」(貸元級の稼業名)の貸元もいました(*19)。十二社とは、西新宿四丁目付近の旧地名です。この記事内では現在のJR新宿駅を境にし、駅より東側(山手線の内側)を「新宿東側」、駅より西側(山手線の外側)を「新宿西側」とします。「十二社」貸元は新宿西側の縄張りを預かっていたのでした。一方「新宿」貸元は新宿東側の縄張りを預かっていたと考えられます。

 一方、南八幡総長の西村林右衛門は「神奈川」初代貸元でした(*19)。「四軒寺」「新宿」「十二社」「神奈川」等の各貸元の率いる勢力は「小金井一家の2次団体」でした。この時代の小金井一家は「各貸元勢力の連合体」だったのです。

 後に「神奈川」二代目貸元・金子万吉(萬吉)(*19)が、東京方面と神奈川方面を再統一したといわれています(*14)。

 そして金子万吉は小金井一家の総長となり、以降小金井一家は総長を再導入しました(*14)。小金井一家の系譜では金子万吉は四代目総長となっていました(*19)。小金井小次郎の死去(1881年)から金子万吉による再統一まで、小金井一家は世話役体制をとっており、総長を設けませんでした。通常であれば金子万吉の総長代数は「二」となりますが、小金井一家の系譜では市村和十郎が二代目、先述の西村林右衛門が三代目となっていました(*19)。市村和十郎は、先述した藤屋の万吉(本名:市村万吉)の次男であり、後に小金井小次郎の養子になりました(*14)。「小金井一家二代目総長・市村和十郎」「小金井一家三代目総長・西村林右衛門」は後年、便宜上設けられたと考えられます。

 小金井一家は新宿から府中にかけての地域(*20)、神奈川県では川崎市や横浜市鶴見など(*21)を縄張りとしていました。新宿一帯は明治時代から小金井一家の縄張りでした(*20)。また府中から川崎大師までの地域でも小金井一家は勢力を張っていました(*2)。小金井一家内には貸元級の稼業名として「笹塚」「鳥山」がありました(*19)。つまり「笹塚」貸元は渋谷区笹塚の縄張りを預かり、「鳥山」貸元は世田谷区烏山地区の縄張りを預かっていました。笹塚と烏山、そして先述の新宿と府中は京王線の沿線上に位置していました。京王線は、新宿~八王子間を甲州街道沿いの経路で結んだものでした(*22)。

 先述の「四軒寺」貸元は吉祥寺の縄張りを預かっていました。また小金井一家内で「四軒寺内阿佐ヶ谷」という稼業名がありました(*22)。つまり「阿佐ヶ谷」勢力は「四軒寺」勢力の分家であり、「阿佐ヶ谷」貸元は阿佐ヶ谷の縄張りを預かっていました。吉祥寺と阿佐ヶ谷、そして新宿はJR中央線の沿線上に位置していました。

 小金井一家の東京の縄張りは、京王線及びJR中央線沿線上にあったのです。

 太平洋戦争終了(1945年)後、小金井一家は「日本国粋会」(1958年7月)に加盟しました(*23)。日本国粋会は「博徒組織の連合体」でした(*24)。1965年5月小金井一家は日本国粋会を脱退しました(*24)。翌1966年日本国粋会は解散しました(*25)。日本国粋会解散の背景には、警察庁が1964年2月からヤクザ組織に対する取締りを強化したことがありました(*25)。日本国粋会以外の他団体も解散しました(*25)。

  その後、旧日本国粋会勢力は新団体「国粋睦」を結成しました(*26)。小金井一家はこの国粋睦に加盟しました(*26)。しかし1969年4月小金井一家(小金井一家七代目総長・納谷富蔵)(*19)は「中杉一家」「辺見一家」「親之助一家」とともに国粋睦を脱退、新団体「二率会」を結成しました(*26)。その際、中杉一家と辺見一家は合併し、「八王子一家」を立ち上げました(*26)。納谷富蔵が二率会の初代会長に就任しました(*26)。

  2001年小金井一家において東京勢が「住吉会」に移籍、川崎勢が「稲川会」に移籍することになりました(*27)。名目上は小金井一家の全勢力が一旦は住吉会に移籍、その後に旧小金井一家の川崎勢が住吉会から稲川会に移籍するという形がとられました(*27)。

 この話がまとまる前には、発砲事件が起きていました。同年(2001年)3月16日夜、稲川会2次団体「山川一家」構成員が川崎市内で二率会構成員に発砲、襲撃する事件が起きました(*27)。同月18日まで発砲、襲撃事件は続きました(*27)。これらは山川一家と小金井一家の抗争にて起きた発砲事件でした(*27)。その後、両組織は和解しました(*27)。

 実は3月16日の発砲事件以前においては「小金井一家は住吉会に移籍する」という話がありました(*27)。しかし最終的には先述したように、東京勢が「住吉会」に移籍、川崎勢が「稲川会」に移籍することになりました。山川一家が小金井一家に抗争を仕掛けたことで、結果的に稲川会側は小金井一家の川崎勢を引き入れることができたのです。見方によっては、住吉会が稲川会に配慮したようにも見えます。

 この小金井一家の分裂により、上部団体の二率会は同年(2001年)解散しました(*27)。2001年以降、新宿は住吉会の縄張りとなりました(*28)。2001年以前、小金井一家の縄張りにおいて他団体が活動することがありました(*29)。その際、他団体は小金井一家から「縄張りを借りる形」で、活動していました(*29)。他団体は地代を小金井一家に払っていました(*29)。

 ジャーナリストの鈴木智彦によれば、関東以北では強力な組織が「他組織の保有する縄張り」に進出し、地代を払って活動している場合があり、その場所は「借りジマ」と呼ばれました(*30)。新宿は「借りジマ」だったのです。背景には関東以北において「縄張りを保有する組織が、その後もその縄張りを保有する」という考えがあったからです(*30)。ちなみに九州は逆で、「縄張りは一代限り」という考えがありました(*30)。九州の場合、ある縄張り(縄張りX)を保有する組織(A会)のトップが引退したら、「縄張りXを保有する権利」はA会から失効しました。

  東京の銀座は、博徒組織「生井(なまい)一家」(日本国粋会)の縄張りでした(*31)。生井一家は銀座七、八丁目の縄張りを住吉会2次団体「小林会」に貸していました(*31)。一方、生井一家と小林会の間で「縄張りの貸借」はなく、両団体は銀座で共存しているだけという説がありました(*31)。この共存説によれば、生井一家は銀座で賭場開帳権を有すが、飲食店へのミカジメ料徴収等の権利を有しませんでした(*31)。裏返せば、小林会は銀座で賭場開帳権を有しませんでしたが、ミカジメ料徴収等の権利を有したということになります。

 新宿の話に戻ります。新宿においては先述したように小金井一家の「新宿」「十二社」の各貸元がいました。「新宿」「十二社」の各貸元が、新宿の裏社会の「大家」ともいえたのです。

 「新宿」初代貸元は矢島仁太郎、二代目は先述の平松兼三郎、三代目は市川三吉、四代目は田中松太郎、五代目は堀尾昌志でした(*19)。三代目貸元・市川三吉は、1885年(明治十八年)12月7日生まれで、四谷、三光町、番衆町、花園一帯の縄張りを預かっていました(*32)。四谷、三光町、番衆町、花園は新宿東側に位置していました。

 「新宿」五代目貸元・堀尾昌志は、後に小金井一家八代目も継承しました(*19)。先代(七代目)の小金井一家総長は納谷富蔵でした(*13)。納谷富蔵は元々、「四軒寺」六代目貸元でした(*13)。納谷富蔵は1970年1月3日、死去しました(*13)。納谷富蔵が引退せず、死去していた場合、堀尾昌志は1970年以降に小金井一家八代目を継承したと考えられます。

 その堀尾昌志は1978年1月、新宿東側(新宿1~3丁目、歌舞伎町)の縄張りを、矢島武信に継承させました(*33)。一方、矢島武信が新宿東側の縄張りを継承したのは1976年とする資料もあります(*34)。

 継承時、矢島武信は「新宿東」初代貸元を名乗りました(*33)。小金井一家内で新宿東側を預かる稼業名(貸元級)が1978年1月「新宿」から「新宿東」に変わったのです。矢島武信は「東興業」(通称:安藤組)の出身で、1970年7月堀尾昌志と養子縁組をし、小金井一家に移籍しました(*33)。堀尾昌志は矢島武信を引き入れるにあたって、「跡目代行」のポストを矢島武信に提供しました(*33)。

 先述したように堀尾昌志は1970年以降、小金井一家八代目を継承したと考えられます。もし堀尾昌志が1970年に小金井一家八代目を継承していたら、矢島武信に継承させるまでの5~8年間、「新宿」五代目貸元と小金井一家八代目総長を兼任していたと考えられます。

 「十二社」初代貸元は丸山徳次郎、二代目は嗚島栄二郎、三代目は坂田喜重でした(*19)。二代目貸元・嗚島栄二郎は、初代貸元・丸山徳次郎の子分でした(*32)。三代目貸元・坂田喜重の後は、「新宿」五代目貸元・堀尾昌志が「十二社」を預かることになりました(*19)。この時、堀尾昌志(「新宿」五代目貸元)が新宿全体の縄張りを預かることになったと考えられます。

 「十二社」二代目貸元・嗚島栄二郎は、小宮長吉とともに、柏木(北新宿と西新宿の一部)から十二社(西新宿四丁目付近)の縄張りを監督していました(*20)。柏木は山手線の外側に位置していました。柏木から十二社に関しては、戦前は浅野熊吉が仕切っていました(*20)。小宮長吉、浅野熊吉が小金井一家の構成員だったかどうかは、筆者の手元の資料からだけでは分かりませんでした。

 2001年以降、住吉会2次団体「向後睦会」内にも「新宿東貸元」という名称がありました(*28)。2004年頃、向後睦会の森春見が「新宿東」貸元を務めていました(*28)。2001年以降、向後睦会が小金井一家の「新宿東」(貸元級の稼業名)をそのまま使い、また新宿東側の「大家」ポジションを担うようになっていったと考えられます。

 また2004年頃、住吉会2次団体「幸平一家」総長代行・加藤英幸は「新宿落合貸元」を務めていました(*28)。加藤英幸は自身の組織として「加藤連合」(住吉会3次団体)を率いていました(*28)。新宿の落合は新宿区北西部に位置しており、山手線の外側に位置しています。

 新宿ではヤクザ組織の親睦団体「東京中央懇親会」がありました(*28)。組織の長が加盟するもので、2004年頃は130人超の参加者がおり、40人以上が住吉会でした(*28)。次に参加人数が多かったのがテキヤ組織「極東会」でした(*28)。他には稲川会、松葉会、東亜会(現在の東声会)、極東会以外のテキヤ組織が参加していました(*28)。東京中央懇親会では月当番制が敷かれていました(*28)。毎月(7、8、12、1、2月を除く)親睦会が開かれていました(*28)。

 太平洋戦争終了(1945年)後の新宿では「赤線」と「青線」が形成されました(*35)。赤線とは「公認の売春地帯」のことで、その俗称でした(*36)。赤線は全国各地にあり、1946年から1958年まで続きました(*36)。

 以前の日本では公娼(公認売春)制度の下、遊郭が営業していました(*36)。終戦直後、連合国軍総司令部(GHQ:General Headquarters)が公娼制度を廃止し、遊郭はなくなりました(*36)。しかしその後、日本政府側は連合国軍総司令部の了承を得て、公認売春地帯を定めました(*36)。公娼制度が実質復活したのでした。一方、青線とは「非公認の売春地帯」のことでした(*35)。

 1958年売春防止法が施行され、以降、赤線(公認売春地帯)の存在は認められなくなりました(*35)。赤線にいた娼婦は、青線に流入していきました(*35)。

 新宿の赤線(1958年まで)は、新宿2丁目付近にありました(*35)。一方、新宿の青線は新宿ゴールデン街(歌舞伎町1丁目)にありました(*35)。新宿ゴールデン街は、売春防止法施行(1958年)以前から青線でした(*37)。東京では他に吉祥寺、町田、渋谷などにも青線がありました(*35)。新宿2丁目付近、ゴールデン街ともに、新宿の東側にあります。

 戦前から新宿東側は盛り場であった一方、西側は閑散としていた場所でした(*38)。

 また太平洋戦争終了後、新宿には闇市が形成されました。新宿駅東口(新宿の東側)にはテキヤ(露店商)「飯島」一門(飯島系統のテキヤ組織群、その系統の一人親方群)の「飯島一家小倉二代目」の勢力(通称:関東尾津組)、同じ飯島一門の「飯島一家内山二代目」の勢力(通称:和田組)、「野原組」がそれぞれ闇市を開設しました(*38) (*39)。飯島一家内山二代目の闇市は新宿駅の南口までありました(*38) (*39)。一方、新宿駅西口(新宿の西側)には「東京早野会初代分家」(通称:安田組)の勢力が闇市を開設していました(*38) (*39)。

 1949年8月4日、連合国軍総司令部は「三多摩と島嶼を除く都内の公道からの露店撤去」という指示を東京都や警視庁などに出しました(*40)。三多摩とは、先述した北多摩郡、南多摩郡、西多摩郡のことでした。その完遂期限は翌1950年3月31日でした(*40)。連合国軍総司令部が指示を出した翌月(1949年9月)、都知事、警視総監、消防総監は連名で、公道からの露店撤去通告を行いました(*41)。結果、1950~1951年の間に、東京都の一部(東京都の中で三多摩と島嶼を除く地域)において闇市、常設露店が無くなりました (*41)。先述の新宿の闇市も1951年までには無くなったのです。

 新宿における闇市の規模は大きかったといわれています(*39)。その要因として松平誠は、新宿の後背地であったJR中央線、小田急線、京王沿線の住宅地が戦後に膨張したことを挙げていました(*39)。空襲により都心の人々が移転した先の1つが世田谷、杉並、練馬でした(*39)。また「丸ノ内のビジネスセンター、霞ヶ関付近の官庁街」と「新宿の後背地(世田谷、杉並、練馬など)」の結節点に位置したのが新宿でした(*39)。

 先述の和田組(飯島一家内山二代目の勢力)のトップは和田薫で、その和田薫と先述の嗚島栄二郎(「十二社」二代目貸元)は兄弟分(義兄弟)でした(*42)。和田薫の年齢は、嗚島栄二郎より、4つ上でした(*42)。

 戦後の闇市では台湾人も商売をしていました(*43)。日本は日清戦争(1894-1895年)に勝利した結果、清国から台湾を割譲してもらいました(*43)。日本は1895年(明治二十八年)6月17日から台湾を統治しました(*43)。

 日本は1945年8月15日、太平洋戦争に負けました(*43)。連合国軍側の中華民国が同年(1945年)9月1日、台湾を「台湾省」として編入しました(*43)。同年(1945年)10月25日、「中国戦区台湾地区降伏式」が行われ、これをもって台湾は祖国復帰、また日本統治時代は終了しました(*43)。

 日本統治時代(1895~1945年)の台湾には日本本土に渡った人達がおり、中には留学生がいました(*43)。当時の台湾は「日本領土」であった為、日本への留学は「内地(国内)留学」でした(*43)。戦後の闇市で商売していた台湾人の多くは内地留学組でした(*43)。

 日本では1945年11月、連合国軍総司令部が朝鮮人、台湾省民、中国人を「できる限り解放国民として処遇する」という声明を出しました(*43)。この連合国軍総司令部が出した声明により、朝鮮人、台湾省民、中国人は法規制を受けることなく、統制品を扱うことができるようになりました(*43)。

 戦時中及び1946年3月3日から1950年代までの日本において商品価格は統制されていました(*44)。戦時中の日本では価格等統制令により、商品は公定価格(統制された価格)で供給されていました(*44)。ただし戦後の1945年9月18日、日本政府の閣議により、青果物と鮮魚介品の公定価格は撤廃されました(*44)。しかし翌1946年3月3日物価統制令が公布、即日施行されました(*44)。この物価統制令により、先述の青果物と鮮魚介品を含む食料品、衣服、日用品等の商品は公定価格で供給されました(*44)。この公定価格での供給は1950年代まで続きました(*44)。

 1950年代までは商品の多くが「統制品」だったのです。そして先述したように朝鮮人、台湾省民、中国人は法規制(物価統制令の規制)を受けることはなかったのです。

 1949年中国大陸では中国共産党が国民党との内戦に勝利し、中華人民共和国を建国しました(*43)。国民党勢力は台湾に逃げ、台湾で国民党政権が成立しました(*43)。国民党政権は本省人(戦前から台湾に居住していた台湾人)を軽視し、外省人(戦後、中国大陸から台湾に移ってきた中国人)を重視しました(*43)。先述したように戦後の闇市で商売していた台湾人の多くは内地留学組でした。内地留学組は、戦前に日本に留学していた者たちのことであり、本省人になりました。

 ちなみに「新宿」二代目貸元の平松兼三郎は、戦前の日本軍に委託され、台湾の軍役夫調達を担っていました(*45)。その平松兼三郎は1942年2月3日、死去しました(*13)。

 1977年小金井一家内ではテキヤ組織「露商連合会」が活動していました(*13)。小金井一家内の「綿吉」一門の勢力、「神奈川松坂家」一門の勢力が露商連合会に加盟していました(*13) (*46)。「綿吉」「神奈川松坂家」はテキヤの稼業名(屋号)でした(*13) (*46)。小金井一家は結成時において博徒組織でしたが、後にはテキヤ(露店商)勢力も小金井一家内で活動していたのでした。また宮城県石巻市では1996年時点で小金井一家内の「渋谷睦」というテキヤ組織が活動していました(*47)。

 大正時代(1912~1926年)の初期、林伊佐倶(小金井一家貸元)が博徒組織「日野一家」に移籍、日野一家の三代目を継承しました(*48)。日野一家は三代目(林伊佐倶)の時代に、西多摩郡や埼玉県に進出、版図を拡大していきました(*48)。1959年林伊佐倶(日野一家三代目)は引退しました(*48)。

 日野一家の縄張りは東京都では国立市、立川市、日野市、昭島市、福生市、羽村市、青梅市、一部を除いたあきるの市、東村山市と小平市の一部、埼玉県では坂戸市、鶴ヶ島市、毛呂山町、越生町などでした(*48)。東京都の縄張りと埼玉県の縄張りは地続きではありませんでした。青梅市の北隣は飯能市(埼玉県)です。

 博徒組織「相の川一家」の縄張りも地続きではありませんでした(*49)。相の川一家は元々、越後や信州に縄張りを持っていました(*49)。その後、相の川一家は上州、武州などに縄張りを持ちました(*49)。東京では東両国、下谷、浜町河岸が相の川一家の縄張りでした(*49)。それらの相の川一家の縄張りは散在していました(*49)。博徒組織の縄張りの境界線としては、主に道路や川が用いられていました(*50)。

 また博徒組織の縄張りは、博徒組織間の約束によって、担保されていました(*49)。

 日野一家の話に戻します。JR中央線では国立、立川、日野、豊田の各駅周辺が日野一家の縄張りでした(*48)。JR(旧国鉄)中央線は元々、甲武鉄道の路線でした。甲武鉄道は1889年(明治二十二年)4月11日に新宿~立川間を、また同年8月11日に立川~八王子間を開業させました(*51)。1906年(明治三十九年)甲武鉄道は国有化されました(*51)。

 中央線の高円寺駅は1922年(大正十一年)開業しました(*51)。翌1923年(大正十二年)9月に発生した関東大震災以降、東京周辺の郊外化が進んでいきました(*52)。高円寺駅周辺では1930年代に商店街が生まれました(*51)。

 1919年(大正八年)4月「都市計画法」が公布されました(*52)。都市計画法により、都市計画区域内において耕地整理法を準用した土地区画整理が可能となりました(*52)。法整備は関東大震災の前に行われていたのです。

 大正時代(1912~1926年)末期の高円寺ではカフェや料理店が新築され、また私娼窟もありました(*32)。当時、後藤金太郎(1882年3月7日生まれ)が高円寺の貸元で、高円寺で賭場を開帳していました(*32)。この後藤金太郎は、小金井一家内の「四軒寺」五代目貸元・小俣源太郎(1884年8月5日生まれ)の客分でした(*32)。高円寺の貸元である後藤金太郎は、小金井一家の関係者だったのです。後藤金太郎の実弟は稲場葉之助でした(*53)。稲場葉之助は、幸平一家(博徒組織)の大草宇一(1895年4月3日生まれ)の子分でした(*53)。

 先述したように「四軒寺」貸元は元々、吉祥寺の縄張りを預かっていました。甲武鉄道(現在のJR中央線)の吉祥寺駅は1899年(明治三十二年)に開業しました(*54)。1938年、中島飛行機の軍需工場が吉祥寺に建設されました(*54)。太平洋戦争中、空襲による延焼防止のため、建物疎開が行われました(*54)。戦後、闇市がその空き地に形成されました(*54)。

 ちなみに新宿駅(品川線)は1885年(明治十八年)に開業しました(*55)。日本鉄道は1885年(明治十八年)3月1日、品川~赤羽間の品川線を開業しました(*56)。品川線の経路は、当時は市域外だった山手地区の西側を通りました(*55)。先述したように小金井小次郎(小金井一家初代)は1881年(明治十四年)6月9日に死去しました。小金井小次郎の死去後に、新宿駅は開業したのです。

 太平洋戦争中、中央線沿線は激しい空襲を受けました(*57)。東京は1944年秋から空襲を受け始めました(*58)。国鉄の調査によれば、空襲を受けた回数で最も多かったのが東海道線の172回、2番目が鹿児島線の88回、3番目が中央線の81回でした(*59)。一方、中央線の近くに位置する西武新宿線、西武池袋線の沿線は、空襲の被害は比較的少なかったです(*57)。

 1945年4月13日、豊島区・淀橋区・小石川区・四谷区・麴町区・赤坂区・渋谷区・牛込区・荒川区・滝野川区が空襲を受けました(*58)。また同年(1945年)5月25日、山の手地区の大半が空襲を受けました(*58)。

 1943年7月東京府及び東京市は廃止され、東京都が誕生していました(*58)。先述したように東京市は1889年(明治二十二年)5月1日に設立されました。設立時の区数は15でした。その後の1932年10月1日、東京市では従来の15区に新規の20区が加わって、区数は35になりました(*58)。

 戦後の1947年3月区域統合が実施、区数は35から22になりました(*58)。同年(1947年)8月、板橋区から練馬区が分離したことで、区数は23になりました(*58)。現在の新宿区は、淀橋区、四谷区、牛込区の3区のことです(*60)。1947年3月の区域統合により、淀橋区、四谷区、牛込区が合併し、新宿区が誕生しました(*60)。

 西武新宿線には沼袋駅があります。

 1881年(明治十四年)8月14日、小金井一家と幸平一家の間で抗争が勃発しました(*61)。抗争の発端は、幸平一家側が沼袋(現在の中野区北部)の八幡神社祭礼の夜宮で賭場を開帳したことでした(*61)。この辺りは元々、両一家の縄張りの境界でした(*61)。しかし沼袋の八幡神社は、小金井一家の縄張りでした(*61)。小金井一家は制裁を加えることにし、1881年8月14日の夜に小金井一家構成員(村田市五郎)が幸平一家の賭場に押し入りました(*61)。その賭場は幸平一家の貸元・矢島金蔵のものでした(*61)。幸平一家の賭場に押し入った小金井一家の村田市五郎は、返り討ちに合い、重傷を負いました(*61)。両一家の争いは警察組織も知ることになりました(*61)。その後、両一家は和解に至り、抗争は終了しました(*61)。和解時には件の沼袋の八幡神社を境として、幸平一家がその北側を縄張りとし、小金井一家がその南側を縄張りとするという約束が結ばれました(*61)。

 またこの時、小金井一家の村田市五郎、幸平一家の江川平吉、幸平一家の浅井藤助(雑司ヶ谷)の3人が五分五分の兄弟分の盃を交わしました(*61)。幸平一家四代目総長は浅井藤助という者でした(*62)。四代目継承前の浅井藤助は、幸平一家の貸元の1人で、牛込(現在の新宿区の一部)の縄張りを預かっていました(*32)。五分五分の兄弟分の盃を交わした1人の浅井藤助が後に幸平一家四代目を継承したのだと考えられます。

 またこの1881年においても、新宿駅(品川線)はまだ開業していませんでした。先述したように1885年に新宿駅は開業しました。

 ここで幸平一家の縄張りを確認します。

 幸平一家は幕末、藤沢幸平(初代総長)により結成されました(*63)。藤沢幸平は元武士で役人を退役した後、江古田(東京都中野区北東部、練馬区南東部一帯)で渡世人(賭博開帳を稼業とする者) (*64)をしました(*63)。その後、藤沢幸平は自身の率いる博徒組織(幸平一家)を興しました(*63)。幸平一家の結成地は江古田だったと考えられます。

 六代目総長・足立勘吉体制時の幸平一家は、池袋から板橋、牛込、江戸川(大滝橋~JR飯田橋駅付近の船河原橋)にかけて縄張りを持っていました(*65)。加えて六代目総長・足立勘吉体制時、「鳥屋一家」の戸田信太郎が、鳥屋一家の雑司ヶ谷の縄張りとともに、幸平一家に移籍しました(*65)。足立勘吉(幸平一家六代目総長)は1937年7月24日、死去しました(*66)。

 1925年(大正十四年)、幸平一家の貸元・田中仙太郎は東中野町、新井一帯に縄張りを預かり、監督していました(*67)。

 滝野川(現在の北区の一部)は、幸平一家と博徒組織「領家一家」の「かけつけ場所」でした(*68)。かけつけ場所とは、縄張り主の組織が確定されておらず、早く賭場を開帳した組織がテラ銭をとれる場所を指しました(*68)。かけつけ場所のルールとして、最初に賭場を開帳した組織がテラ銭の60%をとり、2番手以降の組織らが40%をとるというものがありました(*68)。かけつけ場所におけるテラ銭とは、賭博開帳の収益(もしくは先述の「オドミ」)のことだったと考えられます。しかし後に、博徒組織「滝野川一家」がこの滝野川を縄張りとしました(*68)。

 この滝野川一家は巣鴨(豊島区)も縄張りとしていました(*69)。滝野川一家初代は鈴木庄五郎(1831年生まれ)でした(*69)。

 1891年頃(明治二十四年頃)のある日、鈴木庄五郎(滝野川一家初代)は幸平一家の板橋の賭場に遊びに行きました(*69)。その賭場の貸元は加藤太七(幸平一家)でした(*69)。

 その際、鈴木庄五郎は賭博で負けてしまい、幸平一家側に借金をしてしまいました(*69)。後日、幸平一家の中島長吉(加藤太七の子分)が鈴木庄五郎のもとに、借金の取り立てにやってきました(*69)。その時のやりとりから、滝野川一家の小宮初五郎は匕首で中島長吉を斬り、重傷を負わせてしまいました(*69)。小宮初五郎は逃亡しました(*69)。

 滝野川一家(初代・鈴木庄五郎)はその償いとして、幸平一家側に「中島長吉一代限り」という条件をつけた上で巣鴨の縄張りを貸し出しました(*69)。中島長吉は重傷を負った代償として「巣鴨の貸元(幸平一家)」に昇格し、その中島長吉が引退した際には幸平一家が巣鴨の縄張りを滝野川一家に返還するという約束でした。

 初代・鈴木庄五郎は1894年(明治二十七年)10月9日、病気により死去しました(*69)。鈴木庄五郎は死去前、小宮初五郎を二代目にするという遺言を残しました(*69)。小宮初五郎は二代目を継承しました(*69)。その二代目・小宮初五郎は1933年6月25日、病気により死去しました(*69)。

 その後中島長吉が貸元を引退しましたが、幸平一家は滝野川一家との約束(巣鴨の縄張りを返還するという内容)を履行しませんでした(*69)。一方、滝野川一家(三代目・西村民蔵)も巣鴨の縄張りを奪い返す為、動いていきました(*69)。 博徒組織「土支田一家」の三代目総長・篠信太郎が滝野川一家と幸平一家の仲介役を務めたこともあり(*69)、結局幸平一家は巣鴨の縄張りを滝野川一家に返還しました(*70)。

 藤田五郎によれば1971年頃、幸平一家の桶谷利太郎は中野新橋一帯を預かり、監督していました(*71)。中野新橋は花柳街でした(*71)。

 また同じく藤田五郎によれば1972年頃、この桶谷利太郎(榎本哲五郎の子分)は「中野新井花柳街一帯の親分」でした(*72)。

 中野新橋と中野新井は距離的に離れているものの、桶谷利太郎が両方の貸元を務めていたと考えられます。

 1998~2000年頃、幸平一家の縄張りは池袋、目白、高田馬場、椎名町、長崎、江古田、中野新橋などでした(*63)。鉄道沿線では主に西武新宿線、西武池袋線の沿線に幸平一家の縄張りがありました(*63)。

 中野新井花柳街一帯は新井一帯に含まれるものとします。また滝野川一家の縄張りとなった滝野川、巣鴨は除外しました。

 その上で、上記の地名を挙げますと板橋、牛込、江戸川(大滝橋~JR飯田橋駅付近の船河原橋)、雑司ヶ谷、東中野町、新井一帯、池袋、目白、高田馬場、椎名町、長崎、江古田、中野新橋が幸平一家の縄張りでした。

 「幸平一家が上記の縄張りを他組織から奪われてこなかった」という想定の下で、ここから話をすすめます。

 上記の縄張りに現在の区名をつけていきますと、板橋(板橋区)、牛込(新宿区)、江戸川(新宿区や文京区)、雑司ヶ谷(豊島区)、東中野町(中野区)、新井一帯(中野区)、池袋(豊島区)、目白(豊島区)、高田馬場(新宿区)、椎名町(豊島区)、長崎(豊島区)、江古田(中野区や練馬区)、中野新橋(中野区)となります。

 板橋区が1つ(板橋)、練馬区が1つ(江古田)、豊島区が5つ(雑司ヶ谷、池袋、目白、椎名町、長崎)、新宿区が3つ(高田馬場、牛込、江戸川)、文京区が1つ(江戸川)、中野区(東中野町、新井一帯、江古田、中野新橋)が4つになります。豊島区が1番多く、中野区が2番目に多いです。

 幸平一家の初代・藤沢幸平は元々、江古田で活動していました。幸平一家が江古田から始まったと考えますと、幸平一家は江古田から西武池袋線(1915年4月開業。開業時は武蔵野鉄道)(*73)に沿う形で長崎→椎名町→池袋と進出し、その後、池袋から北上して板橋、南下して目白及び雑司ヶ谷と進出していったのではないかと考えられます。

 また幸平一家は江古田の南側にある新井一帯(中野区の北部寄り)にも進出し、その後南下して東中野町、中野新橋に進出していったと考えられます。また幸平一家は新井一帯から西武新宿線(1927年4月開業。開業時は旧西武鉄道村山線)(*73)に沿う形で、高田馬場に進出、またその先の牛込及び江戸川にも進出していったのかもしれません。牛込、江戸川に関しては、もしくは幸平一家は池袋から南下する経路にて進出したのかもしれません。旧西武鉄道村山線の区間は東村山~高田馬場でした(*73)。1952年3月、西武鉄道村山線の高田馬場~西武新宿間が開業しました(*74)。同時に村山線は「西武新宿線」に改称しました(*74)。この時、旧西武鉄道は存在していませんでした。1945年9月、先述の武蔵野鉄道は旧西武鉄道と食料増産会社を吸収合併し、新社名を「西武農業鉄道」にしました(*75)。翌1946年11月、西武農業鉄道は西武鉄道に改称しました(*75)。

 1958年幸平一家は先述の土支田一家と滝野川一家、「二本木小川一家」とともに「友愛会」を結成しました(*63)。後に友愛会は「政友会」に改称するものの、自然消滅しました(*63)。後に、旧友愛会勢力は住吉連合に加盟しました(*63)。

 明治時代(1868~1912年)の博徒組織は鉄道開設、炭鉱開発において人足供給業(労働者派遣業)を担っていました(*76)。博徒組織は暴力装置(暴力行使をいとわない構成員ら)を持つがゆえに労働者を管理しやすく、それゆえ表社会の事業者は博徒組織を頼ったのでした。それらの建設現場の飯場において、博徒組織は賭場を開帳しました(*77)。

 先述したように2001年になり「小金井一家は住吉会に移籍する」という話が浮上しました。その後、同年(2001年)3月16日、稲川会2次団体・山川一家と小金井一家の間で抗争が勃発しました。すぐに両団体は和解し、最終的に小金井一家の東京勢が住吉会に移籍、川崎勢が稲川会に移籍することになりました。山川一家が小金井一家に抗争を仕掛けたことで、結果的に稲川会側は小金井一家の川崎勢を引き入れることができたのです。見方によっては、住吉会が稲川会に配慮したようにも見えます。

 新宿東側に関しては、2001年以降、住吉会2次団体・向後睦会が小金井一家の「新宿東」(貸元級の稼業名)を使っていったことから、「大家」ポジションを担うようになっていったと考えられます。

 同年(2001年)8月18日、向後睦会幹部の通夜が四ツ木斎場(東京都葛飾区)で行われていました(*78)。この通夜にて稲川会2次団体「大前田一家」構成員2名が、向後睦会の熊川邦男会長、滝野川(滝野川一家)の遠藤浩司総長、向後睦会幹部1名に銃撃しました(*78)。熊川邦男会長と遠藤浩司総長はその銃撃により死亡しました(*78)。警察の調べにより実行犯の大前田一家構成員2名は「熊川会長を狙った」と供述しました(*78)。

 向後睦会とは「向後」(「住吉一家」内の稼業名)一門勢力の統括団体であり、向後平が「向後」初代でした(*28)。向後平は名古屋の出身で(*79)、後に芝浦(現在の港区)の海運業「荒井組」に入りました(*80)。この荒井組には浜本政吉がおり、向後平の舎弟でした(*80)。浜本政吉は1917年(大正六年)生まれでした(*80)。浜本政吉は1988年、後述の住吉連合会にて最高顧問に就きました(*80)。

 向後平は戦後、住吉一家に移籍し、住吉一家三代目総長・阿部重作の子分になりました(*79) (*80)。その際、浜本政吉も住吉一家に移籍しました(*80)。阿部重作も元々住吉一家の者ではなく、「高木組」の出身でした(*81)。高木組は芝浦の人足供給業の組織で、高木康太によって設けられました(*81)。しかし高木康太は博徒組織・生井一家系列の者で、阿部重作は高木組で「代貸」を務めていました(*81)。先述したように代貸とは、賭場の責任者として、賭場を仕切る者のことでした。また高木康太は住吉一家の客分でした(*81)。高木組は人足供給業の組織に加えて、芝浦の港湾労働者を対象とする賭博事業も行う組織だったと考えられます。

 二代目総長・倉持直吉体制下の住吉一家は、芝浦において露天賭博の主催側(賭場開帳者)からカスリをとっていました(*82)。芝浦は住吉一家の縄張りでした(*83)。

 先述したように貸元が自身の縄張り内において他組織の賭場開帳を承認した場合、他組織から収益の一部を徴収し、その徴収金は「カスリ」と呼ばれました。カスリの額は、収益の70%もしくは60%でした。向後平の出身母体である荒井組や高木組は、芝浦で賭場を開帳し、住吉一家にカスリを払っていたと考えられます。

   住吉一家の縄張りは、芝浦、芝(現在の港区高輪、三田、白金など)(*20)、神田(現在の千代田区)(*20)、富士見町(現在の港区南麻布)(*84)、神楽坂(現在の新宿区)(*84)でした。

 阿部重作は高木組から住吉一家に移籍し、1948年に住吉一家三代目を継承しました(*81)。向後平は、住吉一家の構成員として、芝浦の阿部事務所を預かりました(*79)。その後、1949~1950年頃、向後平は高円寺に進出しました(*79)。高円寺はJR中央線の駅があり、中央線沿線の場所でした。

 当時、阿部重作(住吉一家三代目総長)は、新宿の不良の顔役だった塚原崇司を住吉一家に引き入れました(*85)。先述した国立市、立川市、日野市、昭島市、福生市、羽村市、青梅市等を縄張りにしていた日野一家ですが、三代目の林伊佐倶が1959年に引退しました。川口喨史が日野一家四代目を継承しました(*48)。川口喨史は、塚原崇司の舎弟でした(*48)。1959年日野一家三代目の林伊佐倶が引退した際、川口喨史が「跡目養子」として住吉一家側から日野一家に入ったのでした(*48)。

 住吉一家全体が新宿及び中央線沿線の攻略を図っていたと考えられます。

 1956年3月6日午後2時ごろ、浅草の妙清寺で葬儀が行われており、住吉一家の2次団体「大日本興行」会長の高橋輝男ら、また阿部重作もその葬儀に出席していました(*79)。そこに向後平らが侵入し、高橋輝男らに向けて銃撃しました(*79)。高橋輝男側も銃撃にて応戦しました(*79)。銃撃戦の結果、向後平、高橋輝男の両名は死亡しました(*79)。また総長の阿部重作も止めに入った為、右中指を負傷しました(*79)。浜本政吉(向後平の舎弟)は、この事件と以前の罪で、8年の懲役刑の判決が下されました(*80)。浜本政吉は1963年10月、出所しました(1年の仮釈放がつき、実質懲役期間は7年でした)(*80)。

 1965年西口茂男が「向後」二代目を継承しました(*86)。約9年間、住吉一家内において「向後」を名乗ることは許されなかったのでしょう。西口茂男は1929年生まれで、向後平の配下になり、その後20代で部屋住み責任者となりました(*86)。

 浅草妙清寺事件の2年後の1958年、28団体が集い、「港会」を結成しました(*87)。港会の中核組織が住吉一家でした(*87)。住吉一家の青田富太郎が港会会長に就任しました(*87)。1962年10月阿部重作は住吉一家三代目の座を退き、磧上義光(上萬一家の貸元)が住吉一家四代目を継承しました(*87)。阿部重作は1964年12月12日、病気により死去しました(*87)。

 港会は1964年10月「住吉会」に改称しました(*87)。磧上義光(住吉一家四代目総長)が住吉会会長に就任しました(*87)。

 しかし警察庁のヤクザ組織に対する取締り強化作戦(通称:頂上作戦)により、住吉会は1965年5月、解散しました(*87)。住吉会解散の年に西口茂男が「向後」二代目を継承したのです。西口茂男の率いる向後一門勢力は、高円寺を拠点に活動していきました(*86)。「高円寺」は西口茂男の代名詞ともなりました(*86)。

 1967年12月24日、住吉一家四代目総長の磧上義光が死去しました(*88)。堀政夫が住吉一家五代目を継承しました(*88)。堀政夫(住吉一家五代目総長)は1969年、旧住吉会勢力を集めて、「住吉連合」を結成しました(*88)。堀政夫は住吉連合の代表に就任しました(*88)。先述したように、幸平一家等の旧友愛会勢力は、住吉連合に加盟しました。

 1982年5月住吉連合は「住吉連合会」に改称、堀政夫は住吉連合会の会長に就任しました(*89)。1988年5月堀政夫は住吉連合会の総裁職に就任、先述の川口喨史(日野一家四代目総長)が会長に就任しました(*90)。その際、西口茂男は住吉連合会の理事長に就任しました(*90)。また先述したように、浜本政吉(向後平の舎弟)は住吉連合会の最高顧問に就きました。1990年5月川口喨史会長が死去しました(*90)。その後、西口茂男が会長に就任しました(*90)。同年(1990年)10月堀政夫総裁が死去しました(*90)。

 1991年2月14日、住吉連合会は「住吉会」に改称しました(*90)。同時に西口茂男が住吉会の会長に就任、また住吉一家六代目を継承しました(*90)。西口茂男は住吉会2次団体トップらと「親子盃」を交わし、住吉会に直参制(1次団体と2次団体の関係を支配-被支配にする制度)を導入しました(*90)。この住吉会における親子盃は山平重樹が述べているものですが、山平重樹は別の資料において「兄舎弟・親子盃」であったと述べていました(*91)。第2次住吉会発足(1991年)以前、連合型の組織形態が1次団体ではとられていました(*90)。1次団体トップと2次団体トップらとの間で親子盃及び兄舎弟盃が必ず交わされた訳ではありませんでした(*90)。

 堀政夫(住吉連合代表、住吉連合会会長)が2次団体の者と盃を交わす場合もありました。1972年「親和会」が住吉連合に加盟した際、堀政夫(住吉連合代表)は親和会2次団体「光京一家」総長の遠藤幸男、親和会2次団体「栃木一家」ナンバー2の篠原良彦と兄舎弟盃を交わしました(*92)。この盃により堀政夫が「兄分」、遠藤幸男と篠原良彦が「舎弟分」となりました(*92)。親和会は北関東の博徒組織の連合体で(*93)、1972年頃は光京一家と栃木一家が中核組織でした(*92)。

 川口喨史と西口茂男が1次団体の会長職を就任したことから、住吉連合会(もしくは住吉会)の中で、新宿及び中央線沿線で活動する組織が優位に立つようになっていったことが考えられます。

 また「向後」は早川守が三代目、先述の熊川邦男が四代目を継承しました(*28)。

 向後平(1956年死去)の舎弟の1人に清水幸一がいました(*63)。清水幸一は住吉一家の向後一門だったのです。清水幸一は1929年生まれで、28歳の時(1957年頃)、住吉一家から幸平一家に移籍しました(*63)。ちなみに先述の西口茂男も1929年生まれでした。先述の浜本政吉は、向後平の舎弟の中でも「筆頭舎弟」として知られていました(*94)。浜本政吉は自身の舎弟らを集めた親睦会を毎月1回、赤坂の事務所で開いていました(*80) (*94)。その親睦会は「浜本兄弟会」と呼ばれていました(*94)。浜本兄弟会には西口茂男、清水幸一、中久喜源重らが参加していました(*94)。つまりこの3人は「浜本政吉の舎弟」だったことを意味します。中久喜源重は元々、向後平の舎弟でした(*94)。

 整理をしますと、浜本政吉は向後平の筆頭舎弟でした。清水幸一及び中久喜源重は向後平の舎弟であり、浜本政吉の舎弟でもありました。西口茂男は浜本政吉の舎弟でした。西口茂男と清水幸一は兄弟分でした(*63)。おそらく西口茂男と清水幸一は「ノレン兄弟」だったと考えられます。ノレン兄弟とは「同じ組織内の若衆同士もしくは舎弟同士」を指しました(*95)。以上から西口茂男も向後平の舎弟だったと考えられます。

 住吉一家内の「向後平の率いる組織(1956年以前)」では、組織内で親子盃(向後平を「親分」とするもの)が交わされなかったと考えられます。加えて兄舎弟盃(向後平を「兄分」とするもの)も交わされなかったのかもしれません。おそらく向後平の配下は「舎弟」という言葉でまとめられていたと考えられます。

 ヤクザ組織内で親子盃及び兄舎弟盃が交わされると、その組織は「擬制的親族集団」となります(*96)。擬制的親族集団化により、組織内での上下関係は明確になります。

 阿部重作(住吉一家三代目総長)は、向後平や高橋輝男と親子盃を交わしていたはずです。

 向後平の組織は擬制的親族集団ではなかったと考えられます。向後平は自身の組織を擬制的親族集団にする必要を感じていなかったのかもしれません。

 もしくは阿部重作が、自身の子分ら(向後平や高橋輝男ら)がその配下らと親子盃を交わすことを認めていなかったのもしれません。阿部重作にとって「孫分」(子分のまた子分)(*97)は不要だったのかもしれません。

 向後一門の清水幸一は、浅草妙清寺事件(1956年)の1年後頃に、幸平一家に移籍していたのです。清水幸一は幸平一家において、中野の縄張りの一部を預かり、監督していました(*71)。先述の桶谷利太郎(1970年代前半、中野新橋と中野新井の貸元だったと考えられる者)は、1909年(明治四十二年)生まれで、清水幸一の兄貴分になりました(*71)。後に清水幸一は、幸平一家の十一代目を継承しました(*63)。先代(幸平一家十代目)は、先述の青田富太郎(住吉一家出身で港会会長)でした(*63)。青田富太郎は1973年9月10日、死去しました(*66)。

 向後睦会会長の熊川邦男(「向後」四代目)と幸平一家総長代行の五十嵐孝(十二代目総長・築地久松体制)は兄弟分でした(*63)。この兄弟分は「呑み分け兄弟(五分の兄弟分)」(*95)だったと考えられます。以上から向後睦会と幸平一家は協力的に活動し、新宿での活動領域を拡げていったと考えられます。

 住吉一家はいつの頃からか「下部勢力(向後一門の勢力、大日本興行など)を包括する組織」ではなくなり、「住吉一家総長」だけが名跡として残っていきました。その背景としては、1958年結成の港会のような1次団体が生まれたことで、住吉一家が2次団体となったことがあると考えられます。住吉一家の下部勢力にとって、港会や住吉連合の結成とは、「屋上架屋」だったと考えられます。

 1998年福田晴瞭が住吉会会長に就任しました(*98)。西口茂男は会長を退いたものの、住吉一家六代目のままでいました(*98)。2002年西口茂男は住吉会総裁に就任しました(*98)。2005年西口茂男は引退し、福田晴瞭(住吉会会長)が住吉一家七代目を継承しました(*98)。2014年4月関功が住吉会会長に就任しました(*98)。福田晴瞭は会長を退いたものの、住吉一家七代目のままでいました(*98)。

 福田晴瞭会長期間(1998年~2014年4月)、住吉会2次団体の多くは「住吉一家」の傘下に入る形となり、名目上は3次団体となりました(*98)。関功を輩出した「共和一家」の場合、名称は「住吉会住吉一家共和」となっていました。幸平一家と土支田一家の2組織だけが、住吉一家の傘下に入りませんでした(*98)。

 実は福田晴瞭は会長就任時(1998年)及び住吉一家七代目継承時(2005年)において、住吉会2次団体及び3次団体のトップらと親子盃及び兄舎弟盃を交わしませんでした(*98)。つまり住吉会2次団体及び3次団体のトップらにとって、福田晴瞭は「親分」もしくは「兄分」ではなかったのです。

 福田晴瞭会長期間(1998年~2014年4月)の住吉会は連合型の組織形態に戻ったといえます。一方、盃は交わされなかったものの、住吉一家が多くの2次団体を傘下に収める形をとったことで、2005年以降における福田晴瞭の統率力が担保されたのでした。

 先述の「頂上作戦」が1964年に開始してから、違法賭博に関しては非現行検挙が行われていきました(*99)。昔、違法賭博に関する検挙は現行犯のみ可能でしたが、1964年以降は非現行犯も検挙可能となりました(*99)。非現行検挙が可能となったことで、違法賭博業は大打撃を受けました(*99)。

 小金井一家内の博徒組織は1964年以降、資金源が減っていったと考えられます。

<引用・参考文献>

*1 『関東の親分衆 付・やくざ者の仁義 :沼田寅松・土屋幸三 国士俠客列伝より』(藤田五郎編集、1972年、徳間書店), p10-17

*2 『親分 実録日本俠客伝①』(猪野健治、2000年、双葉文庫), p111-112

*3 『現代ヤクザ大事典』(実話時代編集部編、2007年、洋泉社), p61

*4 『地図と読む 日本の街道』「甲州道中」(編集部、2025年、地図情報センター), p122-124

*5 『やくざ事典』(井出英雅、1971年、雄山閣出版), p217-218

*6 『親分 実録日本俠客伝①』, p193-194

*7 『公安大要覧』(藤田五郎、1983年、笠倉出版社), p228

*8 『日本賭博史』(紀田順一郎、2025年、ちくま学芸文庫),p69-70

*9 『生活史叢書4 やくざの生活』(田村栄太郎、1994年、雄山閣), p28-38

*10 『生活史叢書4 やくざの生活』, p44-45

*11 『やくざ事典』, p135-136

*12 『関東の親分衆 付・やくざ者の仁義 :沼田寅松・土屋幸三 国士俠客列伝より』, p268-269

*13 『公安大要覧』,p271-274

*14 『実録 乱世喧嘩状』(藤田五郎、1976年、青樹社), p176

*15 『東京都の歴史』「市・郡沿革表」(2021年、山川出版社),p29

*16 『東京都の歴史』「9章 東京の成立」(藤野敦、2021年、山川出版社),p318-319,321,323-325

*17 『関東の親分衆 付・やくざ者の仁義 :沼田寅松・土屋幸三 国士俠客列伝より』,p29-30, 73,78

*18 『関東の親分衆 付・やくざ者の仁義 :沼田寅松・土屋幸三 国士俠客列伝より』,p71

*19 『公安大要覧』,p268-269

*20 『関東やくざ者』(藤田五郎、1971年、徳間書店), p26,196

*21 『ヤクザ伝 裏社会の男たち』(山平重樹、2000年、幻冬舎アウトロー文庫),p141

*22 『日本鉄道史 大正・昭和戦前篇』(老川慶喜、2016年、中公新書),p93

*23 『洋泉社MOOK・義理回状とヤクザの世界』(有限会社創雄社実話時代編集部編、2001年、洋泉社),p60

*24 『公安百年史 - 暴力追放の足跡』(藤田五郎編著、1978年、公安問題研究協会),p717-719

*25 『現代ヤクザ大事典』,p168-170

*26 『洋泉社MOOK・義理回状とヤクザの世界』,p111

*27 『洋泉社MOOK・勃発!関東ヤクザ戦争』(有限会社創雄社『実話時代』田中博昭編、2002年、洋泉社),p8-11

*28 『SANWA MOOK ウラ社会読本シリーズ⑦ 現代ヤクザマルチ大解剖』(有限会社創雄社・実話時代編集部編、2004年、メディアボーイ),p47-49

*29 『洋泉社MOOK・勃発!関東ヤクザ戦争』,p14

*30 『ヤクザ1000人に会いました!』(鈴木智彦、2012年、宝島SUGOI文庫),p184

*31 『六代目山口組ドキュメント2005~2007』(溝口敦、2013年、講談社+α文庫),p108,118

*32 『公安大要覧』,p161,163

*33 『極私的ヤクザ伝 昭和を駆け抜けた親分41人の肖像』(山平重樹、2023年、徳間書店),p72-78

*34 『安藤組 修羅たちの戦い』(大下英治、2026年、宝島SUGOI文庫),p535

*35 『青線 売春の記憶を刻む旅』(八木澤高明、2015年、スコラマガジン),p18,29-32,47

*36 『消えた赤線放浪記 その色町の今は…』(木村聡、2016年、ちくま文庫),p3

*37 『台湾人の歌舞伎町 ― 新宿、もうひとつの戦後史』(稲葉佳子・青池憲司、2024年、ちくま文庫),p126

*38 『台湾人の歌舞伎町 ― 新宿、もうひとつの戦後史』,p32,37,53-54

*39 『東京のヤミ市』(松平誠、2019年、講談社学術文庫),p20-22

*40 『台湾人の歌舞伎町 ― 新宿、もうひとつの戦後史』,p121

*41 『東京のヤミ市』,p166-167,188

*42 『関東やくざ者』, p174,178-179

*43 『台湾人の歌舞伎町 ― 新宿、もうひとつの戦後史』,p24,45-46,59-61

*44『東京のヤミ市』, p126-128,206-207

*45 『やくざと日本人』(猪野健治、1999年、ちくま文庫),p209

*46 『公安大要覧』,p267

*47 『ヤクザ伝 裏社会の男たち』,p224

*48 『実録・新宿ヤクザ伝 阿形充規とその時代』(山平重樹、2012年、幻冬舎アウトロー文庫),p14-15

*49 『実証・日本のやくざ―正統派博徒集団の実像と虚像』(井出英雅、1973年、立風書房),p202-203

*50 『関東やくざ者』, p11

*51 『地図で読み解く JR中央線沿線』(監修:岡田直、文:栗原景、2020年、三才ブックス),p18-19,31,80

*52 『日本鉄道史 大正・昭和戦前篇』,p89

*53 『公安大要覧』,p162

*54 『地図で読み解く JR中央線沿線』,p90

*55 『地図で読み解く JR中央線沿線』,p66-68

*56 『日本鉄道史 幕末・明治篇』(老川慶喜、2019年、中公新書),p64

*57 『レッドアローとスターハウス もうひとつの戦後思想史』(原武史、2015年、新潮文庫),p518

*58 『東京都の歴史』「10章 近代都市の建設と東京都の半世紀」(藤野敦、2021年、山川出版社),p330-337

*59 『日本鉄道史 大正・昭和戦前篇』,p214

*60 『東京都の歴史』「市・郡沿革表」(2021年、山川出版社),p21-22

*61 『関東の親分衆 付・やくざ者の仁義 :沼田寅松・土屋幸三 国士俠客列伝より』,p46-50

*62 『公安大要覧』,p214-215

*63 『ヤクザ伝 裏社会の男たち』,p156-160

*64 『生活史叢書4 やくざの生活』, p94

*65 『関東やくざ者』,p210-213

*66 『公安大要覧』,p213

*67 『仁義の祭り – 実録戦後やくざ史』「横浜極道者」(藤田五郎、1988年、青樹社),p122-124

*68 『実証・日本のやくざ―正統派博徒集団の実像と虚像』,p204

*69 『親分衆(関東編)』(藤田五郎、1989年、富士出版),p170-175

*70 『ヤクザ伝 裏社会の男たち』, p118

*71 『関東やくざ者』,p186-187

*72 『九州やくざ者』(藤田五郎、1972年、徳間書店),p231

*73  『堤 康次郎 西武グループと20世紀日本の開発事業』(老川慶喜、2024年、中公新書),p171-173, 206-208

*74 『レッドアローとスターハウス もうひとつの戦後思想史』,p95

*75  『堤 康次郎 西武グループと20世紀日本の開発事業』,p222

*76  『盛り場の民俗史』(神崎宣武、1993年、岩波新書),p108-109

*77 『FOR BEGINNERS シリーズ ヤクザ』(朝倉喬司、1990年、現代書館), p36

*78 『戦後ヤクザ抗争史』(永田哲朗、2011年、文庫ぎんが堂),p289-294

*79 『戦後ヤクザ抗争史』,p29-32

*80 『伝説のヤクザ18人』(山平重樹、2018年、文庫ぎんが堂),p32-39

*81 『ヤクザ伝 裏社会の男たち』,p95-96

*82 『関東やくざ者』,p80

*83 『仁義の祭り – 実録戦後やくざ史』「会長襲撃」,p45

*84 『任俠 実録日本俠客伝②』(猪野健治、2000年、双葉文庫),p43

*85 『実録・新宿ヤクザ伝 阿形充規とその時代』,p64-66

*86 『実話時代』2019年9月号,p29

*87 『洋泉社MOOK・ヤクザ・指定24組織の全貌』(有限会社創雄社・実話時代編集部編、2002年、洋泉社),p44-46

*88 『ヤクザ・レポート』(山平重樹、2002年、ちくま文庫),p195-197

*89 『ヤクザ・レポート』,p203

*90 『ヤクザ・レポート』,p212-215

*91『ヤクザに学ぶ 伸びる男 ダメなヤツ』(山平重樹、2008年、徳間文庫),p333

*92 『洋泉社MOOK・義理回状とヤクザの世界』,p129

*93 『山口組 分裂抗争の全内幕』「第9章 住吉会・稲川会に走った激震」(夏原武、2016年、宝島SUGOI文庫),p298-299

*94 『私が出会った究極の俠たち 泣いて笑ってヤクザ取材45年』(山平重樹、2025年、徳間書店),p53-55

*95 『現代ヤクザ大事典』,p91

*96 『現代ヤクザ大事典』,p104

*97 『生活史叢書4 やくざの生活』,p96

*98 『別冊 実話時代 龍虎搏つ!広域組織限界解析Special Edition』(2017年6月号増刊),p87

*99 『ヤクザ大辞典』(山平重樹監修、週刊大衆編集部編・著、2002年、双葉文庫), p108-109

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