博徒組織「小金井一家」は幕末、小金井小次郎(本名:関小次郎)によって結成されました(*1) (*2)。小金井小次郎は1818年(文政元年)、小金井村で生まれました(*1)。
後に小金井小次郎は藤屋の万吉(本名:市村万吉)の子分となり、博徒組織「藤屋一家」の構成員として活動していきました(*1)。藤屋の万吉は1800年(寛政十二年)に生まれ、博徒組織・藤屋一家を結成しました(*1)。藤屋一家は府中を中心に広大な縄張りを持っていました(*1)。藤屋の万吉は「府中の万吉」とも呼ばれていました(*1)。博徒組織における縄張りとは「賭場開帳権を行使できる地理的範囲」を意味しました(*3)。
府中は甲州街道の宿場町で、次の宿場町が日野でした(*4)。府中と日野の間には多摩川が流れています。日野の次の宿場町は八王子でした(*4)。府中には大國魂神社がありました(*4)。甲州街道は日本橋を起点とし、内藤新宿から下諏訪までを結んでいました(*4)。
小金井小次郎は25歳の時(1843年頃か)、親分・藤屋の万吉から、小金井村一帯の縄張りを預かることになりました(*1)。小金井小次郎は、この時に藤屋一家の「貸元」になったのです。貸元とは、博徒組織の総長(最高位)から縄張りの一部を預かり、監督する者のことでした(*5)。大規模な博徒組織では20人以上の貸元がいました(*6)。
例えば博徒組織「上萬(上万)一家」初代・藤江万吉の時代、上萬一家には36人の貸元がいました(*7)。藤江万吉は1897年(明治三十年)5月15日に死去しました(*7)。上萬一家(初代・藤江万吉の時代)は東西では両国から千葉の船橋まで、南北では江戸湾から北松戸までの地域を縄張りとしていました(*7)。
貸元は預かった(総長より任せられた)縄張り内での賭博事業の最高責任者でした(*6)。貸元の配下には「代貸」がおり、代貸が賭場の責任者として、賭場を仕切りました(*6)。一方、貸元は賭場において客に賭け金を貸しました(*5)。戦前(1941年以前)の貸元は、「所持金の3割」を上限として客に賭け金を貸していました(*5)。有力な貸元は4~5人の代貸を擁していました(*6)。
賭場の開帳者(貸元ら)はテラ銭を徴収していまいた(*8)。テラ銭とは手数料のことで、賭博の内容によって徴収先は変わりました(*8)。「胴親」対「張子」(ちょぼいち、狐、ヨイド等) (*9)の賭博では、賭場開帳者は胴親からテラ銭を徴収しました(*8)。一方「張子」対「張子」(丁半、ぴん転がし等)(*9)の賭博では、賭場開帳者は「勝者の張子」からテラ銭を徴収していました(*8)。
テラ銭の割合は一般的に五分(5%)でしたが、四分(4%)という場合もありました(*10)。
賭場開帳組織(貸元の組織)は、テラ銭などの収益から、「敷代」(賭場になった施設の賃貸料金)、「メリ銭」(客の車代、賭博進行を手伝った者への支払い金)、「エンソ」(子分らの食費)を払いました(*10)。その残金(収益-総費用)は「オドミ」と呼ばれました(*10)。貸元はオドミの一部を総長に上納しました(*6)。総長への上納額は、オドミの1~5割といわれていましたが、その割合は一定していませんでした(*6)。
総長への上納金を除外したオドミは「親分」(貸元)と「子分ら」で配分されました(*10)。一般的な割合は「親分」(貸元)に七割、「子分ら」に三割でした(*10)。博徒組織では親分が子分らに金を提供していたのでした。
他組織の者が貸元に対し、その貸元の預かる縄張り内での賭場開帳を申請することがありました(*11)。貸元が自身の縄張り内において他組織の賭場開帳を承認した場合、他組織から収益の一部を徴収しました(*11)。その徴収金は「カスリ」と呼ばれました(*11)。カスリの額は、収益の70%もしくは60%でした(*11)。逆にいえば、他所の縄張り内で賭場を開帳する者は、収益の70%もしくは60%を、その縄張りの貸元に払っていたのです。
藤屋一家の貸元・小金井小次郎は1856年(安政三年)、賭博罪で三宅島に流されました(*1)。小金井小次郎は1866年(慶応二年)まで三宅島で過ごしました(*1)。三宅島にいた期間の1864年(文久四年)、親分・藤屋の万吉が死去しました(*1)。
博徒組織業界では組織の創設者(初代)が引退する際、「誰かに跡目を相続させる方法」もしくは「縄張りを貸元らに分け与える方法」(通称:場所分け)のどちらかがとられました(*12)。藤屋の万吉は、藤屋一家の結成者でした。藤屋の万吉は、小金井小次郎ら貸元に縄張りを分け与えることを選びました(*12)。
その後、小金井小次郎は旧藤屋一家の縄張りの大部分を吸収し、小金井一家の版図を拡大させました(*12)。小金井小次郎は1881年(明治十四年)6月9日に死去しました(*13)。小金井小次郎の墓は、小金井市の金蔵院にありました(*2)。
小金井小次郎も晩年、小金井一家の縄張りを貸元らに分け与えることにしました(*1)。その後、小金井一家は総長を設けず、世話役体制をとりました(*14) 。小金井一家長老らが東京方面から1名、神奈川方面から1名を世話役に推薦し、計2名の世話役が選ばれまれした(*14)。2名の世話役は合議して、小金井一家全体を運営してきました(*14)。多摩川が境となり、多摩川以北(以東)の東京方面の世話役は「北八幡の総長」、多摩川以南(以西)の神奈川方面の世話役は「南八幡の総長」と呼ばれました(*14)。
小金井小次郎の死去した1881年(明治十四年)頃、府中及び小金井は神奈川県北多摩郡に属していました(*15)。当時、府中及び小金井は神奈川県だったのです。
1893年(明治二十六年)4月1日、北多摩郡・南多摩郡・西多摩郡の3郡は、神奈川県から東京府に移管されました(*16)。
1878年(明治十一年)~1893年の東京府は、15区と6郡(荏原郡、東多摩郡、南豊島郡、北豊島郡、南足立郡、南葛飾郡)で構成されていました(*16)。1889年(明治二十二年)5月1日、東京府の15区が「東京市」になり、東京市が誕生しました(*16)。15区は「東京市の15区」になったのでした。1893年4月1日、北多摩郡・南多摩郡・西多摩郡が移管されたことで、東京府は1市9郡の構成となりました。1896年(明治二十九年)、南豊島郡と東多摩郡が合併し、豊多摩郡が誕生しました(*16)。1896年以降の東京府は1市8郡の構成となりました。
小金井一家の話に戻します。ある時期は平松兼三郎が北八幡総長、西村林右衛門が南八幡総長を務めていました(*17)。小金井一家の「四軒寺(しけんでら)」(小金井一家内における貸元級の稼業名)四代目貸元・田中三次は1924年(大正十三年)引退しました(*17)。「四軒寺」の貸元は元々、吉祥寺の縄張りを預かっていました(*17)。田中三次は1894年(明治二十七年)、「四軒寺」四代目を継承し、小金井一家の貸元になりました(*17)。田中三次は引退(1924年)後も、小金井一家の長老として相談役を務めました(*18)。この田中三次らが世話役に推薦したのが、平松兼三郎(北八幡総長)と西村林右衛門(南八幡総長)でした(*14)。
小金井一家内には貸元級の稼業名として「新宿」「神奈川」がありました(*19)。北八幡総長の平松兼三郎は小金井一家内において「新宿」二代目貸元でした(*19)。小金井一家内には「十二社(じゅうにそう)」(貸元級の稼業名)の貸元もいました(*19)。十二社とは、西新宿四丁目付近の旧地名です。この記事内では現在のJR新宿駅を境にし、駅より東側(山手線の内側)を「新宿東側」、駅より西側(山手線の外側)を「新宿西側」とします。「十二社」貸元は新宿西側の縄張りを預かっていたのでした。一方「新宿」貸元は新宿東側の縄張りを預かっていたと考えられます。
一方、南八幡総長の西村林右衛門は「神奈川」初代貸元でした(*19)。「四軒寺」「新宿」「十二社」「神奈川」等の各貸元の率いる勢力は「小金井一家の2次団体」でした。この時代の小金井一家は「各貸元勢力の連合体」だったのです。
後に「神奈川」二代目貸元・金子万吉(萬吉)(*19)が、東京方面と神奈川方面を再統一したといわれています(*14)。
そして金子万吉は小金井一家の総長となり、以降小金井一家は総長を再導入しました(*14)。小金井一家の系譜では金子万吉は四代目総長となっていました(*19)。小金井小次郎の死去(1881年)から金子万吉による再統一まで、小金井一家は世話役体制をとっており、総長を設けませんでした。通常であれば金子万吉の総長代数は「二」となりますが、小金井一家の系譜では市村和十郎が二代目、先述の西村林右衛門が三代目となっていました(*19)。市村和十郎は、先述した藤屋の万吉(本名:市村万吉)の次男であり、後に小金井小次郎の養子になりました(*14)。「小金井一家二代目総長・市村和十郎」「小金井一家三代目総長・西村林右衛門」は後年、便宜上設けられたと考えられます。
小金井一家は新宿から府中にかけての地域(*20)、神奈川県では川崎市や横浜市鶴見など(*21)を縄張りとしていました。新宿一帯は明治時代から小金井一家の縄張りでした(*20)。また府中から川崎大師までの地域でも小金井一家は勢力を張っていました(*2)。小金井一家内には貸元級の稼業名として「笹塚」「鳥山」がありました(*19)。つまり「笹塚」貸元は渋谷区笹塚の縄張りを預かり、「鳥山」貸元は世田谷区烏山地区の縄張りを預かっていました。笹塚と烏山、そして先述の新宿と府中は京王線の沿線上に位置していました。京王線は、新宿~八王子間を甲州街道沿いの経路で結んだものでした(*22)。
先述の「四軒寺」貸元は吉祥寺の縄張りを預かっていました。また小金井一家内で「四軒寺内阿佐ヶ谷」という稼業名がありました(*22)。つまり「阿佐ヶ谷」勢力は「四軒寺」勢力の分家であり、「阿佐ヶ谷」貸元は阿佐ヶ谷の縄張りを預かっていました。吉祥寺と阿佐ヶ谷、そして新宿はJR中央線の沿線上に位置していました。
小金井一家の東京の縄張りは、京王線及びJR中央線沿線上にあったのです。
太平洋戦争終了(1945年)後、小金井一家は「日本国粋会」(1958年7月)に加盟しました(*23)。日本国粋会は「博徒組織の連合体」でした(*24)。1965年5月小金井一家は日本国粋会を脱退しました(*24)。翌1966年日本国粋会は解散しました(*25)。日本国粋会解散の背景には、警察庁が1964年2月からヤクザ組織に対する取締りを強化したことがありました(*25)。日本国粋会以外の他団体も解散しました(*25)。
その後、旧日本国粋会勢力は新団体「国粋睦」を結成しました(*26)。小金井一家はこの国粋睦に加盟しました(*26)。しかし1969年4月小金井一家(小金井一家七代目総長・納谷富蔵)(*19)は「中杉一家」「辺見一家」「親之助一家」とともに国粋睦を脱退、新団体「二率会」を結成しました(*26)。その際、中杉一家と辺見一家は合併し、「八王子一家」を立ち上げました(*26)。納谷富蔵が二率会の初代会長に就任しました(*26)。
2001年小金井一家において東京勢が「住吉会」に移籍、川崎勢が「稲川会」に移籍することになりました(*27)。名目上は小金井一家の全勢力が一旦は住吉会に移籍、その後に旧小金井一家の川崎勢が住吉会から稲川会に移籍するという形がとられました(*27)。
この話がまとまる前には、発砲事件が起きていました。同年(2001年)3月16日夜、稲川会2次団体「山川一家」構成員が川崎市内で二率会構成員に発砲、襲撃する事件が起きました(*27)。同月18日まで発砲、襲撃事件は続きました(*27)。これらは山川一家と小金井一家の抗争にて起きた発砲事件でした(*27)。その後、両組織は和解しました(*27)。
実は3月16日の発砲事件以前においては「小金井一家は住吉会に移籍する」という話がありました(*27)。しかし最終的には先述したように、東京勢が「住吉会」に移籍、川崎勢が「稲川会」に移籍することになりました。山川一家が小金井一家に抗争を仕掛けたことで、結果的に稲川会側は小金井一家の川崎勢を引き入れることができたのです。見方によっては、住吉会が稲川会に配慮したようにも見えます。
この小金井一家の分裂により、上部団体の二率会は同年(2001年)解散しました(*27)。2001年以降、新宿は住吉会の縄張りとなりました(*28)。2001年以前、小金井一家の縄張りにおいて他団体が活動することがありました(*29)。その際、他団体は小金井一家から「縄張りを借りる形」で、活動していました(*29)。他団体は地代を小金井一家に払っていました(*29)。
ジャーナリストの鈴木智彦によれば、関東以北では強力な組織が「他組織の保有する縄張り」に進出し、地代を払って活動している場合があり、その場所は「借りジマ」と呼ばれました(*30)。新宿は「借りジマ」だったのです。背景には関東以北において「縄張りを保有する組織が、その後もその縄張りを保有する」という考えがあったからです(*30)。ちなみに九州は逆で、「縄張りは一代限り」という考えがありました(*30)。九州の場合、ある縄張り(縄張りX)を保有する組織(A会)のトップが引退したら、「縄張りXを保有する権利」はA会から失効しました。
東京の銀座は、博徒組織「生井(なまい)一家」(日本国粋会)の縄張りでした(*31)。生井一家は銀座七、八丁目の縄張りを住吉会2次団体「小林会」に貸していました(*31)。一方、生井一家と小林会の間で「縄張りの貸借」はなく、両団体は銀座で共存しているだけという説がありました(*31)。この共存説によれば、生井一家は銀座で賭場開帳権を有すが、飲食店へのミカジメ料徴収等の権利を有しませんでした(*31)。裏返せば、小林会は銀座で賭場開帳権を有しませんでしたが、ミカジメ料徴収等の権利を有したということになります。
新宿の話に戻ります。新宿においては先述したように小金井一家の「新宿」「十二社」の各貸元がいました。「新宿」「十二社」の各貸元が、新宿の裏社会の「大家」ともいえたのです。
「新宿」初代貸元は矢島仁太郎、二代目は先述の平松兼三郎、三代目は市川三吉、四代目は田中松太郎、五代目は堀尾昌志でした(*19)。三代目貸元・市川三吉は、1885年(明治十八年)12月7日生まれで、四谷、三光町、番衆町、花園一帯の縄張りを預かっていました(*32)。四谷、三光町、番衆町、花園は新宿東側に位置していました。
「新宿」五代目貸元・堀尾昌志は、後に小金井一家八代目も継承しました(*19)。先代(七代目)の小金井一家総長は納谷富蔵でした(*13)。納谷富蔵は元々、「四軒寺」六代目貸元でした(*13)。納谷富蔵は1970年1月3日、死去しました(*13)。納谷富蔵が引退せず、死去していた場合、堀尾昌志は1970年以降に小金井一家八代目を継承したと考えられます。
その堀尾昌志は1978年1月、新宿東側(新宿1~3丁目、歌舞伎町)の縄張りを、矢島武信に継承させました(*33)。一方、矢島武信が新宿東側の縄張りを継承したのは1976年とする資料もあります(*34)。
継承時、矢島武信は「新宿東」初代貸元を名乗りました(*33)。小金井一家内で新宿東側を預かる稼業名(貸元級)が1978年1月「新宿」から「新宿東」に変わったのです。矢島武信は「東興業」(通称:安藤組)の出身で、1970年7月堀尾昌志と養子縁組をし、小金井一家に移籍しました(*33)。堀尾昌志は矢島武信を引き入れるにあたって、「跡目代行」のポストを矢島武信に提供しました(*33)。
先述したように堀尾昌志は1970年以降、小金井一家八代目を継承したと考えられます。もし堀尾昌志が1970年に小金井一家八代目を継承していたら、矢島武信に継承させるまでの5~8年間、「新宿」五代目貸元と小金井一家八代目総長を兼任していたと考えられます。
「十二社」初代貸元は丸山徳次郎、二代目は嗚島栄二郎、三代目は坂田喜重でした(*19)。二代目貸元・嗚島栄二郎は、初代貸元・丸山徳次郎の子分でした(*32)。三代目貸元・坂田喜重の後は、「新宿」五代目貸元・堀尾昌志が「十二社」を預かることになりました(*19)。この時、堀尾昌志(「新宿」五代目貸元)が新宿全体の縄張りを預かることになったと考えられます。
「十二社」二代目貸元・嗚島栄二郎は、小宮長吉とともに、柏木(北新宿と西新宿の一部)から十二社(西新宿四丁目付近)の縄張りを監督していました(*20)。柏木は山手線の外側に位置していました。柏木から十二社に関しては、戦前は浅野熊吉が仕切っていました(*20)。小宮長吉、浅野熊吉が小金井一家の構成員だったかどうかは、筆者の手元の資料からだけでは分かりませんでした。
2001年以降、住吉会2次団体「向後睦会」内にも「新宿東貸元」という名称がありました(*28)。2004年頃、向後睦会の森春見が「新宿東」貸元を務めていました(*28)。2001年以降、向後睦会が小金井一家の「新宿東」(貸元級の稼業名)をそのまま使い、また新宿東側の「大家」ポジションを担うようになっていったと考えられます。
また2004年頃、住吉会2次団体「幸平一家」総長代行・加藤英幸は「新宿落合貸元」を務めていました(*28)。加藤英幸は自身の組織として「加藤連合」(住吉会3次団体)を率いていました(*28)。新宿の落合は新宿区北西部に位置しており、山手線の外側に位置しています。
新宿ではヤクザ組織の親睦団体「東京中央懇親会」がありました(*28)。組織の長が加盟するもので、2004年頃は130人超の参加者がおり、40人以上が住吉会でした(*28)。次に参加人数が多かったのがテキヤ組織「極東会」でした(*28)。他には稲川会、松葉会、東亜会(現在の東声会)、極東会以外のテキヤ組織が参加していました(*28)。東京中央懇親会では月当番制が敷かれていました(*28)。毎月(7、8、12、1、2月を除く)親睦会が開かれていました(*28)。
太平洋戦争終了(1945年)後の新宿では「赤線」と「青線」が形成されました(*35)。赤線とは「公認の売春地帯」のことで、その俗称でした(*36)。赤線は全国各地にあり、1946年から1958年まで続きました(*36)。
以前の日本では公娼(公認売春)制度の下、遊郭が営業していました(*36)。終戦直後、連合国軍総司令部(GHQ:General Headquarters)が公娼制度を廃止し、遊郭はなくなりました(*36)。しかしその後、日本政府側は連合国軍総司令部の了承を得て、公認売春地帯を定めました(*36)。公娼制度が実質復活したのでした。一方、青線とは「非公認の売春地帯」のことでした(*35)。
1958年売春防止法が施行され、以降、赤線(公認売春地帯)の存在は認められなくなりました(*35)。赤線にいた娼婦は、青線に流入していきました(*35)。
新宿の赤線(1958年まで)は、新宿2丁目付近にありました(*35)。一方、新宿の青線は新宿ゴールデン街(歌舞伎町1丁目)にありました(*35)。新宿ゴールデン街は、売春防止法施行(1958年)以前から青線でした(*37)。東京では他に吉祥寺、町田、渋谷などにも青線がありました(*35)。新宿2丁目付近、ゴールデン街ともに、新宿の東側にあります。
戦前から新宿東側は盛り場であった一方、西側は閑散としていた場所でした(*38)。
また太平洋戦争終了後、新宿には闇市が形成されました。新宿駅東口(新宿の東側)にはテキヤ(露店商)「飯島」一門(飯島系統のテキヤ組織群、その系統の一人親方群)の「飯島一家小倉二代目」の勢力(通称:関東尾津組)、同じ飯島一門の「飯島一家内山二代目」の勢力(通称:和田組)、「野原組」がそれぞれ闇市を開設しました(*38) (*39)。飯島一家内山二代目の闇市は新宿駅の南口までありました(*38) (*39)。一方、新宿駅西口(新宿の西側)には「東京早野会初代分家」(通称:安田組)の勢力が闇市を開設していました(*38) (*39)。
1949年8月4日、連合国軍総司令部は「三多摩と島嶼を除く都内の公道からの露店撤去」という指示を東京都や警視庁などに出しました(*40)。三多摩とは、先述した北多摩郡、南多摩郡、西多摩郡のことでした。その完遂期限は翌1950年3月31日でした(*40)。連合国軍総司令部が指示を出した翌月(1949年9月)、都知事、警視総監、消防総監は連名で、公道からの露店撤去通告を行いました(*41)。結果、1950~1951年の間に、東京都の一部(東京都の中で三多摩と島嶼を除く地域)において闇市、常設露店が無くなりました (*41)。先述の新宿の闇市も1951年までには無くなったのです。
新宿における闇市の規模は大きかったといわれています(*39)。その要因として松平誠は、新宿の後背地であったJR中央線、小田急線、京王沿線の住宅地が戦後に膨張したことを挙げていました(*39)。空襲により都心の人々が移転した先の1つが世田谷、杉並、練馬でした(*39)。また「丸ノ内のビジネスセンター、霞ヶ関付近の官庁街」と「新宿の後背地(世田谷、杉並、練馬など)」の結節点に位置したのが新宿でした(*39)。
先述の和田組(飯島一家内山二代目の勢力)のトップは和田薫で、その和田薫と先述の嗚島栄二郎(「十二社」二代目貸元)は兄弟分(義兄弟)でした(*42)。和田薫の年齢は、嗚島栄二郎より、4つ上でした(*42)。
戦後の闇市では台湾人も商売をしていました(*43)。日本は日清戦争(1894-1895年)に勝利した結果、清国から台湾を割譲してもらいました(*43)。日本は1895年(明治二十八年)6月17日から台湾を統治しました(*43)。
日本は1945年8月15日、太平洋戦争に負けました(*43)。連合国軍側の中華民国が同年(1945年)9月1日、台湾を「台湾省」として編入しました(*43)。同年(1945年)10月25日、「中国戦区台湾地区降伏式」が行われ、これをもって台湾は祖国復帰、また日本統治時代は終了しました(*43)。
日本統治時代(1895~1945年)の台湾には日本本土に渡った人達がおり、中には留学生がいました(*43)。当時の台湾は「日本領土」であった為、日本への留学は「内地(国内)留学」でした(*43)。戦後の闇市で商売していた台湾人の多くは内地留学組でした(*43)。
日本では1945年11月、連合国軍総司令部が朝鮮人、台湾省民、中国人を「できる限り解放国民として処遇する」という声明を出しました(*43)。この連合国軍総司令部が出した声明により、朝鮮人、台湾省民、中国人は法規制を受けることなく、統制品を扱うことができるようになりました(*43)。
戦時中及び1946年3月3日から1950年代までの日本において商品価格は統制されていました(*44)。戦時中の日本では価格等統制令により、商品は公定価格(統制された価格)で供給されていました(*44)。ただし戦後の1945年9月18日、日本政府の閣議により、青果物と鮮魚介品の公定価格は撤廃されました(*44)。しかし翌1946年3月3日物価統制令が公布、即日施行されました(*44)。この物価統制令により、先述の青果物と鮮魚介品を含む食料品、衣服、日用品等の商品は公定価格で供給されました(*44)。この公定価格での供給は1950年代まで続きました(*44)。
1950年代までは商品の多くが「統制品」だったのです。そして先述したように朝鮮人、台湾省民、中国人は法規制(物価統制令の規制)を受けることはなかったのです。
1949年中国大陸では中国共産党が国民党との内戦に勝利し、中華人民共和国を建国しました(*43)。国民党勢力は台湾に逃げ、台湾で国民党政権が成立しました(*43)。国民党政権は本省人(戦前から台湾に居住していた台湾人)を軽視し、外省人(戦後、中国大陸から台湾に移ってきた中国人)を重視しました(*43)。先述したように戦後の闇市で商売していた台湾人の多くは内地留学組でした。内地留学組は、戦前に日本に留学していた者たちのことであり、本省人になりました。
ちなみに「新宿」二代目貸元の平松兼三郎は、戦前の日本軍に委託され、台湾の軍役夫調達を担っていました(*45)。その平松兼三郎は1942年2月3日、死去しました(*13)。
1977年小金井一家内ではテキヤ組織「露商連合会」が活動していました(*13)。小金井一家内の「綿吉」一門の勢力、「神奈川松坂家」一門の勢力が露商連合会に加盟していました(*13) (*46)。「綿吉」「神奈川松坂家」はテキヤの稼業名(屋号)でした(*13) (*46)。小金井一家は結成時において博徒組織でしたが、後にはテキヤ(露店商)勢力も小金井一家内で活動していたのでした。また宮城県石巻市では1996年時点で小金井一家内の「渋谷睦」というテキヤ組織が活動していました(*47)。
大正時代(1912~1926年)の初期、林伊佐倶(小金井一家貸元)が博徒組織「日野一家」に移籍、日野一家の三代目を継承しました(*48)。日野一家は三代目(林伊佐倶)の時代に、西多摩郡や埼玉県に進出、版図を拡大していきました(*48)。1959年林伊佐倶(日野一家三代目)は引退しました(*48)。
日野一家の縄張りは東京都では国立市、立川市、日野市、昭島市、福生市、羽村市、青梅市、一部を除いたあきるの市、東村山市と小平市の一部、埼玉県では坂戸市、鶴ヶ島市、毛呂山町、越生町などでした(*48)。東京都の縄張りと埼玉県の縄張りは地続きではありませんでした。青梅市の北隣は飯能市(埼玉県)です。
博徒組織「相の川一家」の縄張りも地続きではありませんでした(*49)。相の川一家は元々、越後や信州に縄張りを持っていました(*49)。その後、相の川一家は上州、武州などに縄張りを持ちました(*49)。東京では東両国、下谷、浜町河岸が相の川一家の縄張りでした(*49)。それらの相の川一家の縄張りは散在していました(*49)。博徒組織の縄張りの境界線としては、主に道路や川が用いられていました(*50)。
また博徒組織の縄張りは、博徒組織間の約束によって、担保されていました(*49)。
日野一家の話に戻します。JR中央線では国立、立川、日野、豊田の各駅周辺が日野一家の縄張りでした(*48)。JR(旧国鉄)中央線は元々、甲武鉄道の路線でした。甲武鉄道は1889年(明治二十二年)4月11日に新宿~立川間を、また同年8月11日に立川~八王子間を開業させました(*51)。1906年(明治三十九年)甲武鉄道は国有化されました(*51)。
中央線の高円寺駅は1922年(大正十一年)開業しました(*51)。翌1923年(大正十二年)9月に発生した関東大震災以降、東京周辺の郊外化が進んでいきました(*52)。高円寺駅周辺では1930年代に商店街が生まれました(*51)。
1919年(大正八年)4月「都市計画法」が公布されました(*52)。都市計画法により、都市計画区域内において耕地整理法を準用した土地区画整理が可能となりました(*52)。法整備は関東大震災の前に行われていたのです。
大正時代(1912~1926年)末期の高円寺ではカフェや料理店が新築され、また私娼窟もありました(*32)。当時、後藤金太郎(1882年3月7日生まれ)が高円寺の貸元で、高円寺で賭場を開帳していました(*32)。この後藤金太郎は、小金井一家内の「四軒寺」五代目貸元・小俣源太郎(1884年8月5日生まれ)の客分でした(*32)。高円寺の貸元である後藤金太郎は、小金井一家の関係者だったのです。後藤金太郎の実弟は稲場葉之助でした(*53)。稲場葉之助は、幸平一家(博徒組織)の大草宇一(1895年4月3日生まれ)の子分でした(*53)。
先述したように「四軒寺」貸元は元々、吉祥寺の縄張りを預かっていました。甲武鉄道(現在のJR中央線)の吉祥寺駅は1899年(明治三十二年)に開業しました(*54)。1938年、中島飛行機の軍需工場が吉祥寺に建設されました(*54)。太平洋戦争中、空襲による延焼防止のため、建物疎開が行われました(*54)。戦後、闇市がその空き地に形成されました(*54)。
ちなみに新宿駅(品川線)は1885年(明治十八年)に開業しました(*55)。日本鉄道は1885年(明治十八年)3月1日、品川~赤羽間の品川線を開業しました(*56)。品川線の経路は、当時は市域外だった山手地区の西側を通りました(*55)。先述したように小金井小次郎(小金井一家初代)は1881年(明治十四年)6月9日に死去しました。小金井小次郎の死去後に、新宿駅は開業したのです。
太平洋戦争中、中央線沿線は激しい空襲を受けました(*57)。東京は1944年秋から空襲を受け始めました(*58)。国鉄の調査によれば、空襲を受けた回数で最も多かったのが東海道線の172回、2番目が鹿児島線の88回、3番目が中央線の81回でした(*59)。一方、中央線の近くに位置する西武新宿線、西武池袋線の沿線は、空襲の被害は比較的少なかったです(*57)。
1945年4月13日、豊島区・淀橋区・小石川区・四谷区・麴町区・赤坂区・渋谷区・牛込区・荒川区・滝野川区が空襲を受けました(*58)。また同年(1945年)5月25日、山の手地区の大半が空襲を受けました(*58)。
1943年7月東京府及び東京市は廃止され、東京都が誕生していました(*58)。先述したように東京市は1889年(明治二十二年)5月1日に設立されました。設立時の区数は15でした。その後の1932年10月1日、東京市では従来の15区に新規の20区が加わって、区数は35になりました(*58)。
戦後の1947年3月区域統合が実施、区数は35から22になりました(*58)。同年(1947年)8月、板橋区から練馬区が分離したことで、区数は23になりました(*58)。現在の新宿区は、淀橋区、四谷区、牛込区の3区のことです(*60)。1947年3月の区域統合により、淀橋区、四谷区、牛込区が合併し、新宿区が誕生しました(*60)。
西武新宿線には沼袋駅があります。
1881年(明治十四年)8月14日、小金井一家と幸平一家の間で抗争が勃発しました(*61)。抗争の発端は、幸平一家側が沼袋(現在の中野区北部)の八幡神社祭礼の夜宮で賭場を開帳したことでした(*61)。この辺りは元々、両一家の縄張りの境界でした(*61)。しかし沼袋の八幡神社は、小金井一家の縄張りでした(*61)。小金井一家は制裁を加えることにし、1881年8月14日の夜に小金井一家構成員(村田市五郎)が幸平一家の賭場に押し入りました(*61)。その賭場は幸平一家の貸元・矢島金蔵のものでした(*61)。幸平一家の賭場に押し入った小金井一家の村田市五郎は、返り討ちに合い、重傷を負いました(*61)。両一家の争いは警察組織も知ることになりました(*61)。その後、両一家は和解に至り、抗争は終了しました(*61)。和解時には件の沼袋の八幡神社を境として、幸平一家がその北側を縄張りとし、小金井一家がその南側を縄張りとするという約束が結ばれました(*61)。
またこの時、小金井一家の村田市五郎、幸平一家の江川平吉、幸平一家の浅井藤助(雑司ヶ谷)の3人が五分五分の兄弟分の盃を交わしました(*61)。幸平一家四代目総長は浅井藤助という者でした(*62)。四代目継承前の浅井藤助は、幸平一家の貸元の1人で、牛込(現在の新宿区の一部)の縄張りを預かっていました(*32)。五分五分の兄弟分の盃を交わした1人の浅井藤助が後に幸平一家四代目を継承したのだと考えられます。
またこの1881年においても、新宿駅(品川線)はまだ開業していませんでした。先述したように1885年に新宿駅は開業しました。
<引用・参考文献>
*1 『関東の親分衆 付・やくざ者の仁義 :沼田寅松・土屋幸三 国士俠客列伝より』(藤田五郎編集、1972年、徳間書店), p10-17
*2 『親分 実録日本俠客伝①』(猪野健治、2000年、双葉文庫), p111-112
*3 『現代ヤクザ大事典』(実話時代編集部編、2007年、洋泉社), p61
*4 『地図と読む 日本の街道』「甲州道中」(編集部、2025年、地図情報センター), p122-124
*5 『やくざ事典』(井出英雅、1971年、雄山閣出版), p217-218
*6 『親分 実録日本俠客伝①』, p193-194
*7 『公安大要覧』(藤田五郎、1983年、笠倉出版社), p228
*8 『日本賭博史』(紀田順一郎、2025年、ちくま学芸文庫),p69-70
*9 『生活史叢書4 やくざの生活』(田村栄太郎、1994年、雄山閣), p28-38
*10 『生活史叢書4 やくざの生活』, p44-45
*11 『やくざ事典』, p135-136
*12 『関東の親分衆 付・やくざ者の仁義 :沼田寅松・土屋幸三 国士俠客列伝より』, p268-269
*13 『公安大要覧』,p271-274
*14 『実録 乱世喧嘩状』(藤田五郎、1976年、青樹社), p176
*15 『東京都の歴史』「市・郡沿革表」(2021年、山川出版社),p29
*16 『東京都の歴史』「9章 東京の成立」(藤野敦、2021年、山川出版社),p318-319,321,323-325
*17 『関東の親分衆 付・やくざ者の仁義 :沼田寅松・土屋幸三 国士俠客列伝より』,p29-30, 73,78
*18 『関東の親分衆 付・やくざ者の仁義 :沼田寅松・土屋幸三 国士俠客列伝より』,p71
*19 『公安大要覧』,p268-269
*20 『関東やくざ者』(藤田五郎、1971年、徳間書店), p26,196
*21 『ヤクザ伝 裏社会の男たち』(山平重樹、2000年、幻冬舎アウトロー文庫),p141
*22 『日本鉄道史 大正・昭和戦前篇』(老川慶喜、2016年、中公新書),p93
*23 『洋泉社MOOK・義理回状とヤクザの世界』(有限会社創雄社実話時代編集部編、2001年、洋泉社),p60
*24 『公安百年史 - 暴力追放の足跡』(藤田五郎編著、1978年、公安問題研究協会),p717-719
*25 『現代ヤクザ大事典』,p168-170
*26 『洋泉社MOOK・義理回状とヤクザの世界』,p111
*27 『洋泉社MOOK・勃発!関東ヤクザ戦争』(有限会社創雄社『実話時代』田中博昭編、2002年、洋泉社),p8-11
*28 『SANWA MOOK ウラ社会読本シリーズ⑦ 現代ヤクザマルチ大解剖』(有限会社創雄社・実話時代編集部編、2004年、メディアボーイ),p47-49
*29 『洋泉社MOOK・勃発!関東ヤクザ戦争』,p14
*30 『ヤクザ1000人に会いました!』(鈴木智彦、2012年、宝島SUGOI文庫),p184
*31 『六代目山口組ドキュメント2005~2007』(溝口敦、2013年、講談社+α文庫),p108,118
*32 『公安大要覧』,p161,163
*33 『極私的ヤクザ伝 昭和を駆け抜けた親分41人の肖像』(山平重樹、2023年、徳間書店),p72-78
*34 『安藤組 修羅たちの戦い』(大下英治、2026年、宝島SUGOI文庫),p535
*35 『青線 売春の記憶を刻む旅』(八木澤高明、2015年、スコラマガジン),p18,29-32,47
*36 『消えた赤線放浪記 その色町の今は…』(木村聡、2016年、ちくま文庫),p3
*37 『台湾人の歌舞伎町 ― 新宿、もうひとつの戦後史』(稲葉佳子・青池憲司、2024年、ちくま文庫),p126
*38 『台湾人の歌舞伎町 ― 新宿、もうひとつの戦後史』,p32,37,53-54
*39 『東京のヤミ市』(松平誠、2019年、講談社学術文庫),p20-22
*40 『台湾人の歌舞伎町 ― 新宿、もうひとつの戦後史』,p121
*41 『東京のヤミ市』,p166-167,188
*42 『関東やくざ者』, p174,178-179
*43 『台湾人の歌舞伎町 ― 新宿、もうひとつの戦後史』,p24,45-46,59-61
*44『東京のヤミ市』, p126-128,206-207
*45 『やくざと日本人』(猪野健治、1999年、ちくま文庫),p209
*46 『公安大要覧』,p267
*47 『ヤクザ伝 裏社会の男たち』,p224
*48 『実録・新宿ヤクザ伝 阿形充規とその時代』(山平重樹、2012年、幻冬舎アウトロー文庫),p14-15
*49 『実証・日本のやくざ―正統派博徒集団の実像と虚像』(井出英雅、1973年、立風書房),p202-203
*50 『関東やくざ者』, p11
*51 『地図で読み解く JR中央線沿線』(監修:岡田直、文:栗原景、2020年、三才ブックス),p18-19,31,80
*52 『日本鉄道史 大正・昭和戦前篇』,p89
*53 『公安大要覧』,p162
*54 『地図で読み解く JR中央線沿線』,p90
*55 『地図で読み解く JR中央線沿線』,p66-68
*56 『日本鉄道史 幕末・明治篇』(老川慶喜、2019年、中公新書),p64
*57 『レッドアローとスターハウス もうひとつの戦後思想史』(原武史、2015年、新潮文庫),p518
*58 『東京都の歴史』「10章 近代都市の建設と東京都の半世紀」(藤野敦、2021年、山川出版社),p330-337
*59 『日本鉄道史 大正・昭和戦前篇』,p214
*60 『東京都の歴史』「市・郡沿革表」(2021年、山川出版社),p21-22
*61 『関東の親分衆 付・やくざ者の仁義 :沼田寅松・土屋幸三 国士俠客列伝より』,p46-50
*62 『公安大要覧』,p214-215
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