住吉一家と富士見町

  • URLをコピーしました!

 博徒組織「住吉一家」は富士見町(現在の千代田区)、神楽坂(現在の新宿区)に縄張りを持っていました(*1)。博徒組織において縄張りとは「賭場開帳権を行使できる地理的範囲」を意味しました(*2)。住吉一家が富士見町及び神楽坂において賭場を開帳しても、他の博徒組織は住吉一家に文句を言えなかったのです。

   博徒組織内の貸元が縄張りを監督し、その縄張り内の賭博事業を運営しました(*3)。総長(博徒組織の最高位)は貸元に縄張りの一部を預けていました(*3)。

 しかし縄張りの所有権は、総長ではなく、一家(博徒組織)に帰属しました(*2)。総長は「一家の代表」として貸元に預けていたに過ぎなかったのです。

  1916年(大正五年)1月、住吉一家の倉持直吉は富士見町で賭場を開帳しました(*4)。倉持直吉は大正時代(1912~1926年)初めに、住吉一家二代目を継承しました(*5)。1916年1月の時点で、倉持直吉は住吉一家二代目総長だった可能性がありますし、富士見町の縄張りを預かる貸元だった可能性もあります。

 明治時代(1868~1912年)以降、花街(かがい)が富士見町と神楽坂に形成されました(*6) (*7)。花街とは、芸妓(げいぎ)の営業地区のことでした(*8)。芸妓とは、歌、舞踊、三味線などの芸を持って宴席に興を添えることを業とする女性のことでした(*9)。

 芸妓の営業には「芸妓置屋(置屋)」「料理屋」(もしくは「待合」)の2つの店が必要でした(*9)。

 芸妓置屋とは、芸妓を擁し、求めに応じて料理屋、待合、貸席、旅館などに芸妓を派遣する店のことでした(*9)。料理屋とは、客室があり、客の注文に応じて料理を出す店のことでした(*9)。待合とは、客室があり、客が芸妓を招いて遊興する店のことでした(*9)。芸妓置屋と料理屋(もしくは待合)の営業が許可された花街は「二業地」、芸妓置屋と料理屋と待合の営業が許可された花街は「三業地」と呼ばれました(*9)。

 富士見町には東京招魂社がありました(*6)。東京招魂社は1869年(明治二年)、建立されました(*6)。東京招魂社の後身が靖国神社です(*6)。東京招魂社の前には競馬場があり、1871年(明治四年)~1901年(明治三十四年)まで競馬が開催されていました(*6)。

 1896年(明治二十九年)、地元の顔役で侠客の柴田喜太郎が検番を開設しました(*6)。検番は「芸妓置屋」から「料理屋」もしくは「待合」への芸妓派遣業務、「花代」(時間制の遊興料金)の清算業等を仕切る事務所でした(*9)。柴田喜太郎がどこの博徒組織に属していたかは不明です。1912年(大正元年)、柴田喜太郎は死去しました(*6)。

<引用・参考文献>

*1 『任俠 実録日本俠客伝②』(猪野健治、2000年、双葉文庫), p43

*2 『現代ヤクザ大事典』(実話時代編集部編、2007年、洋泉社), p61,63

*3 『親分 実録日本俠客伝①』(猪野健治、2000年、双葉文庫), p193-194

*4 『関東の親分衆 付・やくざ者の仁義 :沼田寅松・土屋幸三 国士俠客列伝より』(藤田五郎編集、1972年、徳間書店), p234-235

*5 『ヤクザ伝 裏社会の男たち』(山平重樹、2000年、幻冬舎アウトロー文庫),p86

*6 『東京 花街・粋な街』(上村敏彦、2008年、街と暮らし社), p119-123

*7 『東京 花街・粋な街』, p67-79

*8 『花街 遊興空間の近代』(加藤政洋、2024年、講談社学術文庫), p3-4

*9 『花街 遊興空間の近代』「花街関連用語集」, p219-221

よかったらシェアしてね!
  • URLをコピーしました!

コメント

コメントする

CAPTCHA


目次