「大石組」(「山口組」2次団体)初代組長の大石誉夫は、2012年3月に引退しました(*1)。引退直前まで大石誉夫は、上部団体・山口組内において顧問を務めていました(*1)。大石誉夫が引退した2012年3月の山口組は、司忍・六代目組長体制(2005年7月発足)下でした(*2)。
大石組は元々、独立団体でした。大石誉夫は実兄・大石宮次郎とともに、愛媛県新居浜市で大石組を興しました(*1)。新居浜市は愛媛県東部に位置しています。
大石組は新居浜市内の映画館におけるスライド広告事業を手掛けました(*1)。スライド広告とは、本編の間に放映されるCMフィルムのことでした(*1)。当時の新居浜市では地元商店や地方企業が広告料を払い、スライド広告を出していました(*1)。新居浜市で営業する商店や企業から「広告料」という形で金銭が大石組に流れていたのです。
新居浜市は瀬戸内海に接しており、地図で見ると、その対岸には広島県の尾道市や福山市があります。広島県の東隣には岡山県があります。
太平洋戦争終了(1945年)後、岡山県では三宅芳一(芳市)が軍の被服類を横流し、大きな収益を上げ、その後「現金屋」という組織を結成しました(*3)。元々三宅芳一は八百屋で、その屋号が現金屋でした(*3)。八百屋時代の三宅芳一は現金決済を商売上の方針にしていたことから、屋号を現金屋にしていたのです(*3)。ヤクザ組織としての現金屋は、岡山県児島市(現在の倉敷市児島地域)を拠点にしていました(*3) (*4)。
現金屋(ヤクザ組織)は四隻の機帆船を用いて、沖縄や台湾にて密貿易をしました(*3)。機帆船とは、エンジンと帆を兼ね備えた船で、概ね貨物運搬専用の木造船でした(*5)。
当時の沖縄は「外国」でした。1946年2月、アメリカ合衆国軍は北緯30度以南の日本領土を統治下に置きました(*6)。沖縄は北緯30度以南に該当する為、アメリカ合衆国軍が1972年まで沖縄を統治しました(*7)。
アメリカ合衆国軍統治下の沖縄では闇市が形成されました(*7)。闇市形成の背景には、沖縄にはアメリカ合衆国軍物資の盗難や横流し、また台湾や香港などとの密貿易という違法性の調達経路がありました(*7)。
現金屋は砂糖、生ゴム、アメリカ合衆国軍衣料、大工道具などを密輸しました(*3) (*4)。戦後日本に進駐した連合国軍は、三宅芳一を「内海のカポネ」と呼んでいました(*4)。
1949年9月、三宅芳一とその配下らが関税法違反で検挙されました(*4)。1951年6月には法務府から解散命令があり、現金屋は解散しました(*4)。しかし翌1952年頃から、現金屋はヤクザ組織としての活動を再開していきました(*4)。
1952年11月、現金屋の首領・三宅芳一は土建業「現金屋三宅組」、観光ホテル「雅叙園」を設立しました(*4)。
また1954年2月三宅芳一は、児島競艇の海上警備係長に就任しました(*4)。
競艇(現在のボートレース)は公営競技の1つで、その他の公営競技としては競馬、競輪、オートレースがあります(*8)。公営競技の実態は賭博です(*8)。地方自治体などが公営競技を主催しました(*8)。公営競技の胴元は、地方自治体などだったのです。
1951年6月5日モーターボート競争法が、衆議院本会議にて成立しました(*9)。このモーターボート競争法が「競艇の根拠法」でした(*9)。翌1952年、9つの競艇場(津、琵琶湖、狭山、尼崎、丸亀、児島、若松、芦屋、大村)が開場しました(*10)。上記の児島競艇は1952年から営業していたのです。
三宅芳一が公営競技の役職(児島競艇の海上警備係長)に就けた背景には、一部の児島市会議員グループ(現金屋とつながりのある市会議員達)の支援があったからです(*4)。三宅芳一は海上警備係長として児島競艇に入り込んだ後、八百長レースを選手に強要しました(*4)。当時の市民は、児島競艇レースを「現金屋レース」と揶揄していました(*4)。
また現金屋は自ら賭場の開帳もしていました(*3)。
現金屋は岡山県では最大の組織となり、瀬戸内海を渡り香川県、愛媛県、徳島県に進出しました(*11)。
香川県では現金屋の下部団体として「小田村会」(坂出市)、「本多組」(丸亀市)、「泉組」(観音寺)が活動していました(*12)。
愛媛県において三宅芳一は、先述の大石宮次郎(大石誉夫の実兄)を舎弟し、また今治市の原田定直や東予市の目見田義定も舎弟にしました(*3)(*13)。今治市と東予市は愛媛県東部に位置していました。この情報から現金屋は愛媛県東部にまで進出していたことが分かります。
大石宮次郎が「三宅芳一の舎弟」になった時点で、大石組は「現金屋」の2次団体になったと考えられます。
1956年4月三宅芳一は児島市の市会議員に当選しました(*4)。三宅芳一は市議会では「産業観光委員長」と「議会運営委員長」の役職に就き、また多くの市会議員を影響下に置いていきました(*4)。
1958年以降、現金屋の勢力は水島臨海重化学工業基地に進出、土地売買、工事請負などを手掛けていきました(*4)。
1961年頃、大石誉夫(大石宮次郎の実弟)が瀬戸内海を渡り、岡山県に進出しました(*1)。おそらくこの当時の大石誉夫は「現金屋」の傘下にあったと考えられます。
1962年11月、三宅芳一は岡山県会議員を目指す為、ヤクザ社会からの引退を表明しました(*11)。現金屋内では次の首領(二代目)の座を巡り、内紛が勃発しました(*11)。三宅芳一は幹部の熊本親に、二代目を譲ろうと考えていました(*4)。一方、小畠春男のグループが反発し、内紛が勃発したのでした(*4)。小畠春男のグループは、当時の現金屋において主流派を形成していました(*4)。
翌1963年1月、岡山市内のホテル「後楽」で、山口組2次団体「地道組」組長の地道行雄と熊本親の間で兄舎弟盃が交わされました(*4) 。この兄舎弟盃は、地道行雄を「兄貴分」、熊本親を「舎弟分」にするものでした(*4)。当時の地道行雄は上部団体・山口組において若頭を務めていました(*4)。熊本親は山口組若頭の舎弟になることで、つまり「山口組の力」を借りて、小畠春男のグループに対抗しようとしたことが窺えます。この時点(1963年1月)で「熊本親が現金屋を脱退し山口組に移籍した」可能性もありますが、一方「熊本親は現金屋に在籍したまま、地道行雄の舎弟になり、現金屋二代目継承を狙っていった」可能性もあります。
結局、三宅芳一は熊本親に二代目を譲ることを諦め、引退を撤回しました(*4)。引退撤回後、現金屋首領・三宅芳一は1963年2月神戸市須磨の料亭「寿楼」にて、児玉誉士夫(右翼の大物)の媒酌により、山口組の田岡一雄・三代目組長から「客分の盃」をもらいました(*4) (*11)。現金屋は山口組の影響下に入ったのでした。
実はこの神戸市須磨の料亭・寿楼にて同年同月(1963年2月)の10日、田岡一雄(山口組三代目組長)は、同じく児玉誉士夫の仲介により、町井久之(「東声会」会長)と兄舎弟盃を交わしました(*14)。この兄舎弟盃は、田岡一雄を「兄貴分」、町井久之を「舎弟分」にするものでした(*14)。この兄舎弟盃により東声会も山口組の影響下に入りました。
熊本親は地道行雄の舎弟になった時(1963年1月)から半年後、旧「福田会」(現金屋2次団体)勢力を束ねて地道組内にて「熊本組」(地道組2次団体)を結成しました(*4) (*11)。この時点においては熊本親が現金屋を脱退し、山口組に移籍したことが明らかです。同年(1963年)6月、福田会構成員が岡山市内で地道組構成員を刺し、重傷を負わせる事件がありました(*4)。この事件をきっかけに、事件(1963年6月)の半月後に福田会は解散していました(*4)。以上から熊本組(地道組2次団体)は1963年の6月以降に結成されたことが分かります。また熊本組(地道組2次団体)結成までの経緯から、現金屋から一部勢力(熊本親や福田会)が抜け、山口組に移籍したことが分かります。
翌1964年2月、熊本親(地道行雄の舎弟)は、田岡一雄の「直接の子分」(直参)になりました(*11)。これにより熊本親の率いる熊本組は、地道組から内部昇格する形で、山口組2次団体になりました(*11)。山口組にとって熊本組は「岡山県における初めての2次団体」となりました(*11)。
一方、現金屋首領の三宅芳一は1964年4月、児島市の市会議員に再び当選したことで、引退しました(*11)。三宅一巳(三宅芳一の実弟)が、現金屋二代目を継承しました(*11)。三宅一巳は同年(1964年)7月、田岡一雄の「直接の舎弟」(直参)になりました(*11)。これにより現金屋は、山口組2次団体になりました(*11)。当時、現金屋の構成員数は約500人でした(*11)。この構成員数が、一部勢力が脱退する前の数字なのか、それとも一部勢力が脱退した後の数字なのかは不明です。
1965年8月、三宅一巳の病気などの理由で、現金屋は解散しました(*11)。
先述の新居浜市の大石組(大石宮次郎組長)は、1959年8月と1963年12月の2回において、新居浜市の「竹形組」(「本多会」2次団体)と抗争をしていました(*12)。その後大石組は1964年2月、地道組の傘下に入りました(*15)。その際、大石宮次郎は地道行雄の舎弟になりました(*15)。後に大石組(大石宮次郎組長)は山口組2次団体に昇格しました(*15)。
先述したように、大石宮次郎は「三宅芳一の舎弟」だったことから、1964年2月以前の大石組は「現金屋2次団体」だったと考えられます。大石組は「現金屋2次団体」として、竹形組と抗争していた可能性があります。
先述したように1963年2月三宅芳一(現金屋首領)は田岡一雄(山口組三代目組長)の客分になったことで、現金屋は山口組の影響下に入りました。これ以降、先述した香川県の現金屋下部団体であった小田村会(坂出市)、本多組(丸亀市)、泉組(観音寺)は山口組下部団体の傘下に入りました(*12)。
山口組が1963年2月以降、現金屋勢力の一部を取り込んでいったことが分かります。
1962年11月(三宅芳一の1回目の引退表明)以降の現金屋を巡る情勢を俯瞰すると、山口組が現金屋の内紛等に乗じて、現金屋勢力を分断し、それらの勢力(熊本親や福田会、二代目現金屋、大石組等)を吸収していったことが窺えます。先述したように現金屋(一部勢力の脱退前)は岡山県最大の組織だったゆえに、そのまま山口組の傘下に入った場合、山口組の中において有力2次団体になったと考えられます。山口組執行部は、組織内の統制上、現金屋勢力を分轄した方が得策と考えていたのかもしれません。
先述の大石誉夫は、三宅一巳(現金屋二代目)の子分もしくは舎弟でした(*1)。1970年(*1)もしくは1971年6月(*11)に、大石誉夫は田岡一雄の「直接の子分」(直参)になりました(*1) (*11)。その際、大石誉夫の率いる勢力は「大石組」(岡山県)という組織名で山口組2次団体になりました(*1)。
田岡一雄・三代目組長は1981年7月23日、急性心不全で死去しました(*16)。田岡一雄は1946年に山口組三代目を継承しており、田岡一雄・三代目組長体制期間(1946~1981年)は約35年でした(*16)。
山口組は組長(トップ)不在の期間をしばらく経ました。1984年6月5日、竹中正久が山口組四代目を継承しました(*17)。一方、竹中正久・四代目組長体制に反対する勢力は、山口組を脱退、同年(1984年)6月13日、「一和会」を結成しました(*17)。
兵庫県警調べの情報(1984年7月1日)によると、熊本組(熊本親組長)と大石組(大石誉夫組長)は山口組に残留しました(*18)。
発足した竹中正久・四代目組長体制の山口組は、同年(1984年)6月21日、親子盃及び兄舎弟盃を執り行いました(*19)。その盃事で熊本親と大石誉夫は、竹中正久の舎弟分となりました(*18)。
1985年1月、一和会襲撃部隊が竹中正久と若頭・中山勝正らを射殺しました(*20)。山口組と一和会の抗争が本格化していきました(*20)。戦況は山口組の優位に展開しました(*20)。
抗争中の1988年、熊本親は引退、白川孝郎が熊本組二代目を継承しました(*21)。
1989年3月19日、一和会会長の山本広は神戸の東灘署に出頭、自身の引退と一和会の解散を告げました(*22)。これにより山本広は引退し、一和会は解散しました(*22)。また同年(1989年)3月30日、山本広は山口組本家に行き、謝罪をしました(*22)。抗争は終結しました(*22)。
同年(1989年)5月、渡辺芳則が山口組の五代目を継承しました(*20)。同年(1989年)5月18日、発足した渡辺芳則・五代目組長体制の山口組は、親子盃及び兄舎弟盃を執り行いました(*23)。その盃事で大石誉夫(大石組組長)は渡辺芳則の舎弟分(*23)、白川孝郎(熊本組二代目組長)は渡辺芳則の子分となりました(*24)。
2005年7月渡辺芳則・五代目組長は引退しました(*20)。渡辺芳則・五代目組長体制期間(1989年5月~2005年7月)、大石誉夫は山口組内では「舎弟頭補佐」の役を務め (*1) (*23)、白川孝郎は「総本部当番長」を務めました(*21)。
1992年2月、池田孝志(大石組の若頭)が、渡辺芳則・五代目組長の「直接の子分」(直参)になりました(*25)。これにより池田孝志の率いる「池田組」は、大石組から内部昇格する形で、山口組2次団体になりました(*25)。
2004年末「岡山県に本拠地を置いて活動していた山口組2次団体」は、上記の熊本組、大石組、池田組の3組織でした(*26)。3組織とも現金屋を源流としていました。岡山県内では熊本組は玉野市に、大石組と池田組は岡山市に本拠地を置いていました(*26)。
2003年10月有限会社・山陽ミラクルは、岡山市の繁華街にある土地(約105㎡)を有限会社・ジャパン・アドバンスから買い取りました(*27)。その土地にはすでに事務所ビルが建っており、山口組2次団体が以前からその事務所ビルを使用していました(*27)。その建物は未登記でした(*27)。資料(『粉飾の論理』)には表記されていませんでしたが、大石組もしくは池田組が使用していたと考えられます。
その土地を売ったジャパン・アドバンスの代表者はA氏で、A氏は岡山ロイヤルホテル(会社)の代表者でもありました(*27)。一方、その土地を買い取った山陽ミラクルの取締役にはB氏がおり、B氏はロイヤルニジュウイチ(大阪市内の会社)の代表者でした(*27)。
*資料(『粉飾の論理』)では「A氏」「B氏」という表記はされておらず、本名も明らかにされておりません。分かりやすく説明するために、筆者(鯉登太郎)が「A氏」「B氏」という表記にしております。
A氏は元々岡山県でパンチコ店などを経営していました(*27)。1989年先述の岡山ロイヤルホテル(会社)が、同名の岡山ロイヤルホテル(地上8階建て、全159室)を買い取りました(*27)。先述したようにA氏が岡山ロイヤルホテル(会社)の代表者でした。岡山ロイヤルホテル(会社)の買い取り資金は、ほとんど借入金でした(*27)。
債務者・岡山ロイヤルホテル(会社)は借入金の返済をできず、結果、債権者は「岡山ロイヤルホテル(会社)に対する債権」を共同債権買取機構に譲渡しました(*27)。2001年10月、共同債権買取機構は、債権回収の為、岡山地裁に競売開始を申し立てました(*27)。
競売の申し立て直後、アーバンコーポレイションが岡山ロイヤルホテル(ホテル)を買い取りました(*27)。これにより共同債権買取機構は競売の申し立てを取り下げました(*27)。
アーバンコーポレイションは岡山ロイヤルホテル(ホテル)を買い取った10日後、先述のロイヤルニジュウイチ(大阪市内の会社)に売り渡す契約をロイヤルニジュウイチと結びました(*27)。元々、アーバンコーポレイションは「転売目的」で買い取ったと考えられています(*27)。しかしロイヤルニジュウイチは実際、買い取りをしませんでした(*27)。結局、アーバンコーポレイションが岡山ロイヤルホテル(ホテル)を持ち続けることになりました(*27)。その際、アーバンコーポレイションは資金を調達する為、韓国外換銀行から17億7,000万円を借り入れました(*27)。
アーバンコーポレイションは「競売逃れ」に利用されたと考えられています(*27)。
また岡山ロイヤルホテル(会社)の代表者のA氏、ロイヤルニジュウイチの代表者のB氏、この2人は水面下でつながっていたと考えられます。
ちなみに1972年3月15日、岡山―新大阪間の新幹線が開業しました(*28)。2年後の1974年3月、岡山―博多間の新幹線が開業しました(*28)。
1975年10月、中国縦貫道(高速道路)の落合町(岡山県)―吹田市(大阪府)が開通しました(*28)。中国縦貫道とは、吹田市から中国地方の真ん中を通って下関市(山口県)に至る四車線の高速道路でした(*28)。1983年3月、中国縦貫道は下関市まで至り、全通しました(*28)。岡山県では1970年5月から中国縦貫道の建設工事が始まりました(*28)。また中国横断自動車道の岡山―米子間は、1997年3月開通しました(*28)。
これらの交通の発達により岡山県と他の都道府県との交流は盛んになっていったと考えられます。
<引用・参考文献>
*1 『完全保存版 TOWN MOOK 山口組 百年の血風録』「[元直参]大石誉夫氏が明かす「平和共存」の教え」(山田英生、2015年、徳間書店), p43-47
*2 『山口組の100年 完全データBOOK』(2014年、メディアックス), p30-33
*3 『俠道: しまなみ海道異聞』(正延哲士、1999年、青樹社), p60-61
*4 『血と抗争 山口組三代目』(溝口敦、1998年、講談社+α文庫),p159-162
*5 『軍政下奄美の密航・密貿易』(佐竹京子編著、2003年、南方新社), p18
*6 『軍政下奄美の密航・密貿易』, p3,17
*7 『つながる沖縄近現代史-沖縄のいまを考えるための十五章と二十のコラム』「日本復帰と「開発の時代」」(秋山道宏、2021年、ボーダーインク),p196-198
*8 『公営競技史 競馬・競輪・オートレース・ボートレース』(古林英一、2023年、角川新書),p12
*9 『公営競技史 競馬・競輪・オートレース・ボートレース』,p70-73
*10 『公営競技史 競馬・競輪・オートレース・ボートレース』,p124
*11 『山口組の100年 完全データBOOK』,p65-66
*12 『血と抗争 山口組三代目』,p175-176
*13 『俠道: しまなみ海道異聞』, p74
*14 『血と抗争 山口組三代目』,p178
*15 『山口組の100年 完全データBOOK』,p70
*16 『山口組の100年 完全データBOOK』,p18-21
*17 『撃滅 山口組VS一和会』(溝口敦、2000年、講談社+α文庫),p106-107
*18 『山口組の100年 完全データBOOK』,p176
*19 『撃滅 山口組VS一和会』,p117
*20 『山口組の100年 完全データBOOK』,p26-29
*21 『六代目山口組10年史』(2015年、メディアックス),p101
*22 『ドキュメント 五代目山口組』(溝口敦、2002年、講談社+α文庫),p263-270
*23 『ドキュメント 五代目山口組』,p291
*24 『山口組の100年 完全データBOOK』,p241
*25 『六代目山口組10年史』,p36
*26 『洋泉社MOOK・山口組・史上空前の四万人軍団動く!』(有限会社創雄社『実話時代』落合章子・木下明美編、2005年、洋泉社),p64,81-83
*27 『粉飾の論理』(髙橋篤史、2006年、東洋経済新報社),p199-203
*28 『<岡山文庫> 岡山の交通』(藤沢晋、1998年、日本文教出版株式会社),p204-209
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