日本の露店は主に「常設露店」と「仮設露店」の2つがありました(*1)。テキヤ(露店商)業界において常設露店は「平日(ひらび)」と呼ばれていました(*1)。この場合の常設露店(平日)は「毎日一定の場所に出店する」ものを指しました(*2)。常設露店の出店範囲が、そのテキヤ組織の縄張りでした(*1)。テキヤ業界で縄張りは「庭場(にわば)」と呼ばれていました(*3)。
1930年7月頃、警視庁は常設露店を管轄下に置くことにしました(*2)。常設露店の営業地域が定められました(*2)。
1930年7月以前、テキヤ組織が常設露店を仕切っていました(*2)。1930年7月以前、常設露店営業を希望する者は、テキヤ組織に加入しなければなりませんでした(*2)。
しかし1930年7月以降、常設露店営業を希望する者は、管轄の警察の交通係に行き、臨時露店許可願を出せば、(場所が空いていれば)許可証をもらえました(*2)。警察は常設露店からテキヤ勢力を排除しようとしたのでした。
仮設露店は社寺の祭礼や縁日で営業しました(*4)。社寺の祭礼や縁日における仮設露店市は「高市(たかまち)」と呼ばれました(*4)。地元のテキヤ組織は、高市における露店配置の権限を持っていました(*4)。「露店配置の権限を行使できる地域」も庭場(縄張り)でした(*5)。1930年7月以降もテキヤ組織が概ね高市を仕切りました(*2)。しかし場所によっては、警察が高市に干渉することもありました(*2)。
1946年以降、常設露店は禁止されました(*1)。例えば東京都では、1949年8月4日、連合国軍総司令部(GHQ:General Headquarters)が、東京都や警視庁などに、翌1950年3月31日を期限とし、「三多摩と島嶼を除く都内公道からの露店撤去」を指示しました(*6)。GHQ指示の翌月(1949年9月)、都知事、警視総監、消防総監は連名で、路上の露店撤去を通告しました(*7)。結果1950~1951年にかけて三多摩と島嶼を除く東京都において路上の露店は消滅しました(*7)。この際、常設露店に加えて仮設露店も禁止されました。
1952年末、東京都において祭礼や縁日における仮設露店営業の再開が決まりました(*8)。以後、東京都やその他の地域において、祭礼や縁日での仮設露店営業が再開していきました(*8)。常設露店は引き続き、禁止されました(*1)。
常設露店には夜に営業する店もありました。添田知道は、文政十三年(1830年)頃に夜店が出るようになったと考えていました(*9)。夜の常設露店には照明が必要で、テキヤ業界において照明は「テッカリ」と呼ばれていました(*9)。
明治時代(1868~1912年)、電灯は山手のお邸(やしき)町にしかついていませんでした(*9)。その後、電力が幅広く供給されるようになり、1914~1915年(大正三~四年)裏長屋で五燭光(燭光:光度の単位)の電灯が灯りました(*9)。
その後、夜の常設露店でも電灯が使用されていきました (*9)。畑商会という会社は、東京電灯株式会社から電力を仕入れ、東京市内の露店商に配線設備をもって電力を卸しました(*9)。畑商会は、十燭光(一夜)であれば10銭、五十燭光(一夜)であれば15銭、百燭光(一夜)であれば20銭の料金で、電力を露店商に卸しました(*9)。1円は銭に直すと、100銭でした。その料金は、普通の住宅用料金の5~8倍でした(*9)。畑商会は「電力の卸売会社」だったのです。その後、成電社と市街電灯社も電力の卸売業に参入し、東京市内における夜の常設露店はどこも電灯が灯るようになりました(*9)。
横井弘三の『露店研究』(1931年6月15日、出版タイムス社より出版)によれば、浅草の露店において電気代は五十燭光であれば10銭、百燭光であれば16銭でした(*10)。銀座の露店において電気代は回数券で、百燭光であれば10銭または10銭5厘で、五十燭光であれば8銭ぐらいでした(*11)。
東京市内のテキヤ勢力は1926年(大正十五年)7月、3社(畑商会、成電社、市街電灯社)に対する料金値下げ要求、また露店電灯自営も要求していきました(*9)。
1931年以前の東京市内では銀座、新宿、浅草、上野広小路、神楽坂、人形町、道玄坂等の盛り場にて夜の常設露店が営業していました(*12)。
1931年以前の京都では寺町通りから京極にかけて夜の常設露店が営業していました(*12)。一方、1931年以前の大阪において、夜の常設露店はあまり見られなかったようです(*12)。
1931年以前の名古屋では栄町や大須で夜の常設露店が営業していました(*12)。
また当時、電力会社は電気鉄道を「大口の顧客」としていました(*13)。鬼怒川水力電気は東京郊外鉄道、小田原急行電鉄、渋谷急行電気鉄道に資本を出していました(*13)。また電気鉄道の中には自ら電力事業を行うところがありました。京王電気軌道は1912年(明治四十五年)、府中火力発電所を建設しました(*14)。京王電気軌道は府中火力発電所で発電された電力を鉄道運行に用いるのに加えて、翌1913年(大正二年)1月1日から調布町、多磨村、府中町、西府村に電気を配給していきました(*14)。1941年以前の京王電気軌道は40万灯超の配電をしており、当時の配電事業は京王電気軌道にとって大きな収入源でした(*15)。
関西では宇治川電気が1927年、兵庫電気軌道と神戸姫路電気鉄道を買収し、同社の鉄道部門に置きました(*16)。宇治川電気は1933年、旧兵庫電気軌道と旧神戸姫路電気鉄道を分離、その分離により山陽鉄道が発足しました(*16)。分離したものの、当時山陽鉄道は「宇治川電気の子会社」でした(*16)。宇治川電気は近江鉄道も支配下に置いていました(*17)。後に電力国家管理に基づく日本発送電への電力統制で、宇治川電気は解散しました(*16)。
1908年(明治四十一年)9月京都電灯株式会社が滝波川上流域に中尾発電所を建設しました(*18)。また京都電灯株式会社は中尾発電所で発生する余剰電力を活用するため、福井県内で鉄道事業を始めました(*18)。
道路交通法が1960年6月公布、その年の12月施行されました(*19)。道路交通法でも常設露店は禁止されました(*20)。
ちなみに夜の露店(資料では「屋台」と表記)では偽札が使われることが多かったです(*21)。背景には夜の露店が薄暗く、混雑している為、紙幣の確認などができなかったことが挙げられます(*21)。
<引用・参考文献>
*1 『テキヤと社会主義 1920年代の寅さんたち』(猪野健治、2015年、筑摩書房), p184,191
*2 『社会学選書⑪ 露店研究』(横井弘三、2021年、いなほ書房), p10-12
*3 『現代ヤクザ大事典』(実話時代編集部編、2007年、洋泉社)
*4 『盛り場の民俗史』(神崎宣武、1993年、岩波新書), p44-47
*5 『ヤクザ1000人に会いました!』(鈴木智彦、2012年、宝島SUGOI文庫), p183-184
*6 『台湾人の歌舞伎町 ― 新宿、もうひとつの戦後史』(稲葉佳子・青池憲司、2024年、ちくま文庫), p121
*7 『東京のヤミ市』(松平誠、2019年、講談社学術文庫), p166-167
*8 『テキヤと社会主義 1920年代の寅さんたち』, p192-193
*9 『生活史叢書3 てきや(香具師)の生活』(添田知道、1973年、雄山閣),p195-200
*10 『社会学選書⑪ 露店研究』, p150
*11 『社会学選書⑪ 露店研究』, p130
*12 『社会学選書⑪ 露店研究』「東西露店物語り」(奥山磐、2021年、いなほ書房), p180-182
*13 『謎とフシギの京王電鉄 関東屈指の“個性派鉄道”を読む』(松本典久、2025年、交通新聞社新書),p48-49
*14 『謎とフシギの京王電鉄 関東屈指の“個性派鉄道”を読む』,p24-26
*15 『謎とフシギの京王電鉄 関東屈指の“個性派鉄道”を読む』,p56
*16 『キャンブックス 関西私鉄比較探見』(広岡友紀、2010年、JTBパブリッシング),p142-144
*17 『キャンブックス 関西私鉄比較探見』,p163
*18 『キャンブックス 関西私鉄比較探見』,p172
*19 『盛り場の民俗史』, p89
*20 『テキヤと社会主義 1920年代の寅さんたち』,p23
*21 『決済インフラ大全 〔2030年版〕 新型スマホ決済から新決済リスク、金融業態改革、次世代決済まで』(宿輪純一、2025年、東洋経済新報社), p48
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