太平洋戦争終了(1945年)の翌1946年2月、アメリカ合衆国軍(米軍)は北緯30度以南の日本領土を統治下に置きました(*1)。北緯30度以南の日本領土としては、口之島以南のトカラ列島、奄美群島、沖縄諸島、先島諸島(宮古列島、八重山列島)、小笠原諸島がありました(*1)。トカラ列島と奄美群島は鹿児島県の行政区域で、小笠原諸島は東京都の行政区域になります。
1952年2月、口之島以南のトカラ列島が日本に返還されました(*2)。奄美群島は1953年12月(*3)、沖縄諸島と先島諸島は1972年に日本に返還されました(*4)。
沖縄ヤクザ組織の源流は、戦後の米軍物資の窃盗グループで、通称「戦果アギャー」でした(*5)。
「戦果アギャー」には沖縄出身者のグループに加えて、奄美大島出身のグループ(大島グループ)もありました(*3)。また大島グループはブローカー業も手掛けていました(*3)。
図 奄美大島付近の地図(出典:Googleマップ)
戦後、沖縄と本土の間で密貿易が始まりました(*3)。沖縄と本土の間に位置する奄美群島は、密貿易の「中継地」として機能しました(*3)。奄美大島では密輸グループが形成されていきました(*3)。
その密輸グループの一部が沖縄に行き、大島グループとなっていったのです(*3)。
同じ米軍領の奄美群島と沖縄でしたが、定期船(奄美群島→沖縄)の乗船は「許可制」で、合法的な方法では自由な往来はできなかったようです(*6)。無許可乗船、密航船の利用で、奄美群島から沖縄に向かう人達もいました(*6)。奄美群島と沖縄の往来においても、違法領域が利用されていたことが窺えます。密航船は、那覇港ではなく、安謝港に着くことが多かったようです(*6)。那覇港は米軍の軍用基地となっており、那覇港の周辺は立ち入り禁止区域でした(*7)。
国境越え(米国領土→日本領土)の方法として、主に2つあったようです。1つ目は小型の発動機船で北緯30度線(国境)を超える方法でした(*8)。2つ目は、旅行用のパスポート(最長90日)で入国する方法でした(*8)。
那覇の国際通りには闇市があり、米、芋菓子、砂糖、煙草、缶詰、布地、古着、化粧品等が売られていました(*7)。闇市の商品の多くは、鹿児島、宮崎、大阪、台湾、香港から運ばれていました(*7)。終戦後、国際通りの闇市は、形成されていきました(*7)。当時の沖縄において生活必需品の多くは、自由取引が禁じられていました(*7)。しかし1953年10月琉経済委員会は、生活必需品の自由取引措置を実行しました(*7)。
日本本土でも同様に、自由取引が禁じられていました。1946年3月3日、日本本土で物価統制令が公布されました(*9)。物価統制令により、統制機関が物資(主な食料、衣類、日用品)を公定価格で国民に配給及び販売することになりました(*9)。松平誠は「統制機関以外の経路」で物資を売買すること、「自由価格」(公定価格ではない価格)で物資を売買することを「ヤミ」と定義しました(*9) (*10)。「統制機関以外の経路」もしくは「自由価格」で売買された物資が「ヤミの商品」といえました。また松平誠は、ヤミの商品の売買市場を「ヤミ市」と定義しました(*10)。物資売買の違反者は、処罰されました(*10)。
しかし終戦直後の一時期において朝鮮人、台湾省民、中国人は、違反しても、処罰されにくかったです(*11)。
当時の日本において朝鮮人、台湾省民、中国人は、1945年11月GHQ(連合国軍総司令部)の「できるかぎり解放国民として処遇する」という声明により、物資売買に関して法的規制を受けなかったのです(*12)。主に台湾省民や中国人が、米軍購買部(PX:Post Exchange)からの横流れ品、密輸品を調達していました (*12)。
日本本土では翌1947年10月、果物など132品目で公定価格が廃止されました(*9)。以降、公定価格廃止の品目が増えていき、1950年代は大部分の統制が解除されました(*9)。逆にいえば、1950年代にはヤミの商品が消滅していったのです。
沖縄においても、先述した1953年10月(自由取引措置の実行)以降、ヤミの商品は消えていったと考えられます。
奄美群島が日本に返還(1953年12月)されて以降、大島グループは沖縄から消えていきました(*3)。大島グループの消えた一因としては、1953年10月の自由取引措置の実行があるのかもしれません。
米軍統治下時代(1946~1953年)の奄美大島では、黒糖の密輸が盛況でした(*13)。密輸グループは船で黒糖を口之島(トカラ列島)もしくは本土の鹿児島に運びました(*13)。奄美大島にて60円で仕入れた黒糖は、口之島では120円、本土の鹿児島では300円ぐらいで売れました(*13)。黒糖密輸の利幅は大きかったのです。口之島では、鹿児島や宮崎など本土の商人が黒糖を買いました(*13)。口之島において本土の商人は、黒糖の決済を、日用品との物々交換でする時もありました(*13)。本土の鹿児島まで行った際には、密輸グループは日用品を仕入れ、奄美大島や沖縄に運びました(*13)。
黒糖はサトウキビを原料とします。奄美大島で元禄年間(1688~1704年)にサトウキビの本格的な栽培が始まったといわれています(*14)。1745年薩摩藩の「換糖上納令」公布により、奄美群島の租税対象が「米」から「サトウキビ」に切り替わりました(*14)。結果、1755年の凶作で徳之島(奄美群島)の島民3千人が餓死しました(*14)。
1777年奄美群島において「黒糖の惣買入制」が開始されましたが、1787年廃止されました(*15)。しかし1831年奄美群島において黒糖の惣買入制が再開されました(*15)。
奄美群島では昔から黒糖が作られていたのです。
米軍統治下時代(1946~1953年)、本土の鹿児島には真鍮や薬莢(やっきょう)も密輸されていました(*16)。
米軍統治下時代に本土の鹿児島は「国境地帯」として、「日本領の玄関口」として機能していたことが窺いしれます。
戦後の鹿児島市内ではヤクザ組織、愚連隊が乱立していました(*17)。1952年頃までに「小桜組」が鹿児島市内を支配下に置きました(*17)。小桜組は終戦直後の1945年、大里清蔵によって結成されました(*18)。1969年小桜組は「小桜一家」に改称しました(*17)。その数年後、小桜一家は、離島を含む鹿児島県内のアウトロー組織を支配下に置きました(*17)。
1979年時、小桜一家のトップ(三代目総長)は神宮司文夫でした(*19)。三代目総長・神宮司文夫体制下の1979年、小桜一家は「奄美支部」を擁しており、上村隼人が「奄美支部支部長」を務めていました(*19)。1979年時において奄美群島は、小桜一家の勢力圏だったのです。
【関連記事】



<引用・参考文献>
*1 『軍政下奄美の密航・密貿易』(佐竹京子編著、2003年、南方新社),p3,17
*2 『軍政下奄美の密航・密貿易』,p271
*3 『洋泉社MOOK・沖縄ヤクザ50年戦争』(有限会社創雄社『実話時代』田中博昭編、2004年、洋泉社), p43-44
*4 『つながる沖縄近現代史-沖縄のいまを考えるための十五章と二十のコラム』「日本復帰と「開発の時代」」(秋山道宏、2021年、ボーダーインク), p196
*5 『洋泉社MOOK・沖縄ヤクザ50年戦争』, p37-40
*6 『軍政下奄美の密航・密貿易』,p179,219-222
*7 『盛り場の民俗史』(神崎宣武、1993年、岩波新書),p2-7
*8 『軍政下奄美の密航・密貿易』,p195
*9 『東京のヤミ市』(松平誠、2019年、講談社学術文庫),p206-207
*10 『東京のヤミ市』,p6
*11 『東京のヤミ市』,p24-25
*12 『台湾人の歌舞伎町 ― 新宿、もうひとつの戦後史』(稲葉佳子・青池憲司、2024年、ちくま文庫),p44-46
*13 『軍政下奄美の密航・密貿易』,p209-212
*14 『島津氏と薩摩藩の歴史』(五味文彦、2024年、吉川弘文館),p108
*15 『島津氏と薩摩藩の歴史』,p115,117-118
*16 『軍政下奄美の密航・密貿易』,p178
*17 『別冊 実話時代 龍虎搏つ!広域組織限界解析Special Edition』(2017年6月号増刊),p71
*18 『SANWA MOOK ウラ社会読本シリーズ⑧ 現代ヤクザマルチ大解剖 ②』(有限会社創雄社・実話時代編集部編、2005年、三和出版),p183
*19 『公安大要覧』(藤田五郎、1983年、笠倉出版社),p560-561
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